出来なくて悔しいは
7年ぶり?10年ぶり?それくらい時間が経って再開した武道合宿。
終わってみれば、何時も「あっという間」の時間だった。
合宿は、日頃の稽古では見る事の出来ない「人」を知る事が出来る。
という事に何人が気付き、何人がそれと自分とを比較しただろうか?そんな事を思う。
つまり、他人を見る事で自分自身を知る事が出来るという事だ。
また、合宿は「自分の家・自分の部屋ではない」場所だ。
そこにどんな在り様を見せるか、あるいは、在り様を作り出すかも一つだ。
これら「他人の中で」と意識できるのは自意識が発達しているからであって、ここが未熟だと「自分の部屋の中」そのままが、そこに現れるだけだ。
そんな目で見ていると、殆どの人は「自分の部屋の中」だ。
他人がいないのだ。
だから、餌を待つひな鳥状態になり、「自分で動き出す」という当たり前の事が習慣化されていない事が分かる。
こういった状態は、改善されるのだろうか?
私は、もちろんそれらを教育として学んだわけではない。
他人の中で気付いていっただけだ。
どうして気付けたのか?
それは「私」という自意識が年齢なりに発達していたからだと解釈出来る。
そしてそれの根源になるのは感情だ。
何かが出来ない事に対する「悔しさ」が湧き上がる事だ。
その悔しさを自覚したのは、子供の頃の遊びだ。
○○ちゃんに出来て、自分に出来ない事に苛立った状態を持った事だろうと解釈する。
この幼い自意識が、最終的には「人は皆違う」という本質に辿り着けた体感だ。
「人は皆違う」のは誰しも知っている事だ。
しかし、体感として知っているのか、知識として知っているのかは、天と地程の開きがある。
それは「人は皆違う」を前提として生きられているのかどうかになるのだ。
「人は皆違う」からこそ、という前提は他人への働きかけが丁寧になるし、働きかけそのものが重要だと、これまた体感しているからの行動になるのだ。