「たった今」を生きている?
「日野さんは何故武道への道を選んだのですか?」久しぶりに質問された。
本当の答えは「さぁ?何でやろ」だ。
それでは話として面白くないから、武道へ舵を切った辺りの周辺事情の記憶を辿る。
そして、一応まとめて話す。
知らない人は、その話を真に受ける。
しかし、私は私の記憶だから隙間が見える時もある。
そして、そんな隙間を思い出してみる。
すると余計に「さぁ、何でやろ?」を実感する。
もしかしたら、肝心の事が記憶から抜け落ちているのかもしれない。
しかし、抜け落ちているのは仕方が無いので、その隙間を繋ぎ合わせたり、別の記憶を引き出したりする。
でも、私自身を納得させられる「どうして?」は出て来ない。
そう考えていると、ふと浮かんだのが「思い出を作り出している事」だ。
よく言う「記憶を美化している」事と同じような事だ。
つまり、思い出は全部とはいわないが、フィクションなのだ。
もちろん、リアルな断片は混じっているだろうが、それは「どれ」なのかは分からない。
であれば、「記憶はフィクション」なのだ。
それが間違っているのも、悪いのでもなくそれで良いと思う。
「美化された思い出」で良いではないか。
それは誰とも関係のない事、自分だけのものだからだ。
しかし、だからこそ「たった今の実感」だけが大事なのだと、別の角度からその時に分かった。
その「今」すらも、そこに触れられずに記憶や思い込みだけに触れている場合もあるので、「たった今」を厳密に言えば、体感している事も特別な人だけのものだと言えるだろう。
それは複雑な意識を開発してしまったからだ。
しかし、そうはいってもこの「たった今」は大事だ。
それを哲学的に探求するのではなく、教養として考えるのでもなく、実際に「たった今」を生きる事だ。
しかし、その「たった今」は過去も未来も複雑に絡み合った中にポツンとある時もあるし、長時間ある時もある。
それらは全部「自分次第」なのだ。
「たった今」の連続が理想だが、そうはいかないのでまずは「一瞬」だけでも「たった今」を実感しよう。
もちろん、それは手応えの無い世界だ。
「武禅一の行」では、この「たった今」を軸に、人と話す、人に話すという関係を実践的に体感していきます。
27日が最終締め切りです。
【第111回武禅一の行】11月1,2,3日(土、日、祝)



