喜寿のパーティ
大阪での「明鏡塾」を終えた明くる日は、少し遅れの私の誕生パーティだった。
何時もは、誕生日や近い日の稽古の時に行っているが、今回は「喜寿」という事で大阪のホテルで開催してくれたものだ。
東京や沖縄、福岡、岡山他からも大阪まで来てくれた。
地元熊野の空手の先生も、遺伝子の博士もそれぞれに時間を作り久しぶりに顔を合わせた。
その意味では、嬉しい限りだ。
武道の話や私が育った時代と現代との違い等々に華が咲いた。
大阪道場の最初の盛り上がりとでもいうべき時期に、大学生で稽古をしていた若者も、結婚し子供を儲け会社を継ぎ社長業に勤しんでいるという。
まだまだ顔は大学生の頃のままだが、その内にちゃんとした顔になるだろう。
また「喜寿のドラムコンサート」とリクエストを貰ったが、笑って誤魔化した。
このパーティでは、色んな事を改めて気付いた。
例えば、パーティーというイベントを催す、という事では、当たり前だが「目的」があり、「イベントのコンセプト」から入る。
例えば、それは主催者側のお客さんへの姿勢だ。
つまり、常に「お客さんへ」が意識されていなければならない。
もちろん、それは私にとっては当たり前の事だ。
また、今回は私の喜寿のお祝いだった。
「喜寿」という年齢を、77歳、あるいは、77年生きて来た、という認識なのだろう。
では、「日野晃は?」だ。
彼はどんな人生を生きて来て、どんな中身を持つ人間だから、みんなで祝おうになっているのか?
今回、私のエピソードを紹介してくれていた。
しかし、それは「エピソード」であって、私だからこそそのエピソードから得たものがあり、人生はこう傾いた的なものはなかった。
つまり、エピソードの垂れ流しだった。
だから2次会で、ある30代の人から、日野先生が生きて来た子供の頃は法律は無かったのですか?と真顔で質問されたのには驚いた。
しかし、多かれ少なかれそんな疑問を持った人もいるだろう、と思える、アウトローな生活紹介だったからだ。
しかし、その時間が私の「私以外の人」を体験し「人はそれぞれに違う」という事を体感出来た時間だったのだ。
もっといえば「今、全力」そのものの第一歩だった。
