夏の風物詩
先日、FBで大阪道場の師範代が、大阪中央区久太郎町にある坐摩神社の「せともの市」を紹介していたので、その市を懐かしく思い投稿した。
「夏の風物詩「せともの市」ここは小学1年生頃から、叔母に連れられてせともの市に来ていた。その頃の私のお目当ては、夏の宿題になる絵日記の題材だ。お皿で細工をして、秋の菊人形のように作られた武者姿を絵にしたものだ。この頃は、長堀通も川で、縫うようにうねうねと市電が走っていた。その風景を見るのも楽しみだった。しかし、大阪大空襲の時、人々は街を焼き尽くす焼夷弾から逃げまどい、真っ赤な血にそまった川に飛び込んだそうだ。そして、母もその川に飛び込んだ一人だった。川は熱かったそうだ。そんな時代を持つ大阪の川横にならんだ「せともの市」は、平和を謳歌するように驚くほど人が溢れていたのを思い出す。」というものだ。
どういう訳か、毎年この「せともの市」には叔母に連れられて来ていた。
もちろん、おかげで毎年夏の宿題は、「せともの市」の武者人形の絵や絵日記できっちり出来たものだ。
叔母は明治40年頃の生まれだ。
幾つで亡くなったのかも覚えていないが、生前、私が中学の頃までは、母に代わって面倒をみてくれた。
明治生まれで女学校を出ている、というのが自慢だった叔母。
達筆すぎて何が書かれているのか読めない字。
それでいて、常磐津の師匠だった。
一度「舞台を見においで」と言われ、確か御堂会館辺りで行われた常磐津の会を見に行ったことがある。
多分叔母は70歳位だっただろう。
出演者の中で一番声が出ていたのに驚いた。
その叔母は何を考えて、私を「せともの市」に連れていっていたのか?
ふと気付いたのが、風物詩を体感できるこころのゆとり、その感性を持っていなければ駄目、という明治人の教えだったのではないか。
四季折々の風物詩は、それこそ世界中の村に残っているものだ。
人生を合理的、効率主義という、何だか分からない切り取り方でしか考えられないようにしてしまった我々に対する無言のメッセージなのではなかったのか?と、今になって思う。
もう一つ、大事な発見を示唆してくれていた。
「この子は不憫な子や」と近所の人との世間話で、よく私の事を話していたのを覚えている。
もちろん、意味は分からないが、私が私生児だったことを言っているのだろうとおぼろげ乍ら分かっていた。
しかし、それがどうしたんや?と、全く興味がなかったので、その言葉に洗脳される事はなかった。
という事にきづいたのだ。
つまり、子供の頃の周りの大人からの言葉の影響が、自分を作る要素の一つになるという事にも気付いたのだ。
もちろん、少しは影響を受けているだろうが、その事よりも興味のある事があり、常にそちらに意識が向いていたのが、良かったのだろうと思った。
大阪来月の講習会は8月13日大阪道場
夏の大阪ワークショップ8月1.2.3日北区中崎町傍島ビル



