105回武禅一の行は終わった。
秋の「武禅一の行」は終わった。
100回目の「武禅」も5年前の丁度この日だった。
今回沖縄から受講してくれたN君が教えてくれた。
「100回目はピーンと張り詰めた空気が最初から最後まであったけど、今回は何か緩いですね」と休憩中にこぼしてくれた。
それは、常連の人達もその印象を持っていた。
「どうして?」
それが時間の流れかもしれないし、その時々の受講する人によるのかもしれない。
受講する人による、というのは、自分に対する問題を持って臨んでいる人が多い時と、問題を持っていると「思っているだけ」の人が多い時、という違いだ。
そういえば、100回目は、100回という事で、海外からも明鏡塾の人達も受講していた。
つまり、問題を明確に持ち、それに挑戦しようとしている人ばかりだった。
だから、思い切り空気は張り詰めていた。
「何が何でも感」がその空気を生み出していたのだ。
緊張感が増すと笑いも深くなる。
これは面白い現象だ。
「なまむぎ合戦」がその例だ。
真剣になればなるほど落差が大きくなり、笑いが深くなる。
つまり、緊張と緩和を自動的に調整しているということだ。
そこからいうと、今回は日常的な軽い笑いがあるだけで、お腹の底から笑う、お腹の皮がねじれるくらいの笑いは無かった。
この傾向は、ここ数回続いている。
「思っているだけの人」という事で、およそ20年前のブログにその事を書いていた。
2005/9/8
「思っています」よく質問した時に返ってくる返事である。「今何をしていたの」等に対する答えだ。かなり前、どこかに書いた例である。
私の家の周りは山で、道は車がすれ違えない所が多い。
だからカーブは何時も緊張した。
向こう側から車が突っ込んできたら、避けたりすれ違うことが出来ないからだ。
おかげで、コーナーワークが上手くなったが。
この山道を知らない他府県の車は、何も考えずに突っ込んでくる。
だから時々カーブや道で立ち往生してしまうことになる。
私は道を知っているから、どちらの車をバックさせれば早くこの立ち往生から脱出出来るかを分かっている。
むろん、私は車をバックさせれば良い場合は直ぐにバックさせる。
しかし、相手の車がバックした方がスムーズに事が運ぶ場合は、この限りではない。
道を知らないドライバーは、私に動く気配の無いことを知るとクラクションを鳴らす。
私はすかさず鳴らし返し、下がるようにジェスチャーをする。
すると「ええー」という顔をするが車を動かそうとしない。
「早くこちらに行きたいのやろ、だったらそっちがバックした方が早いで」と窓を開けて叫ぶ。
その言葉を聞いてもクラクションを鳴らすドライバーが多い。
「ボケー、さっさと下がりんかい!」と怒鳴るとやっと動き出す。
問題はこれだ。
前に行きたい『と、思っている』だ。
前に行きたい、しかも早く行きたい。
であれば、そこで一番適切な「方法」を取らなければならない。
この例でいうと、バックするという適切な方法をとればよい、というだけのことだ。
適切な方法をとらずに「そうなれば良いと『思っているだけ』」なのだ。
この例では分かりやすいから、きっと「バカだな」とか「アホちゃうか」と思うだろう。
しかし、実際の日常ではこんな事ばかりだ。
改札口で、電車の扉の前で、エスカレーターで、階段で、道を歩いていて、数え上げればきりがない。
しかし、これは何も公衆の中での事ばかりではない。
武道の稽古でも、ダンスの稽古でも同じだ。
当たり前だ。
公衆の場や社会的な場で、目的に応じて適切な行動をとれない人が、自分の稽古で適切な行動をとれるわけないのだ。どちらも、同じ人間が行動している事なのだからだ。
よく考えなければならない。
「そうしたい」という目的、その目的を達成したいなら、その目的を達成する方法を用いなければ達成など出来ないのだ。
つまり、入口を間違えば絶対にその目的の出口に辿り着く事など出来ないのだ。