子供は親に対して真剣だが、親は?

いよいよ明日から「武禅一の行」だ。

道場を掃除し雑巾で拭き上げ、部屋割りをし明日に備える。

「武禅」は1998年の夏に、見切り発車をした。
そこから7年後の2005年、「武禅」の感想文が出て来た。

「家でこの間『武禅』でやったことを出来る限り意識してやろうと思って子供の話を聞いていたときですが、子供達は、私が出来ない『言葉を伝える』ということが出来ているように思えたんです。

子供達は頭を使わない、身体で表現することしか知らないからだと思います。
いつも真剣なのは親ではなく子供達だったのだなって思い知らされました。

で、そのとき子供達はみな当たり前の力を持っている(使える)存在なのではないかと思いました。

親の役割というのは『育てる』ことであって『教える』ことではない気がします。

もちろん、出来ないことを教えるのも役割の一つではあると思います。

では何を育てるのか?それは持っている力を失わないようにその力を育てる(維持する)、世間でよく言われるような、何も特別な力を引き出すことじゃない気がしました。

ただ、親がやらないと子供達はやらなくなります。
やらなくなれば子供達はその力を失うんだと思います。

その結果、力を失ったのが今の私であり、今の世の殆どの人達の状態(歪み)を生み出してしまっているんじゃないかと思います。
そう思うと、怖いものさえも感じます。

親(特に母親の)の影響はとても重いと思っています。
私は人として当たり前のことが出来ない、それなのに母親になってしまいました。

だからこそ今覚えなければとひしひしと感じています。」

多分、こういった感想は消えていくだろう。

それは自分という「主体」がおぼろげなのが現代の風潮だからだ。
自分が何をしているのか分からない状態だ。

「そんなバカな」だが、もちろん、何をしているのかは知っている。

ただ、それを振り返って自分自身に問い掛ける、という作業。
その作業が「その事」や「自分自身」を成長させる唯一のものだ。

単純化して言えば、紙に字を書き、それを改めて見る。
「何と汚い字なのだろう」と思える事で、汚い字を美しい字に修正していく。
それが「その事」で、「この汚い字を良しとしていた自分は何だ?」が、「自分自身を問う」事だ。

こういった作業は、全て自分次第でその自分次第の「自分」を育てる環境が無くなりつつあるのが現代だから。

そんな中で「武禅」という場や稽古は、失われていく自分自身や関係に気付く為のものである。

明日から2泊3日、笑い声と悲惨な感想が入り混じった特別な空間が訪れる。

Follow me!