頭と行動の隙間は驚くほど深い、それを知らなければ行動にかかれない
熊野から東京に戻った。
もしかしたら、こちらの方が寒いかもしれない。
先日書いた「思っている」だが、大方の人はここで止まっている、どうしてだろうか?
頭の中だけでグルグル回す事で、何かしらの行動が起こっているとこれまた「思っている」のかもしれない。
頭の中は、間違いなく層構造になっているのだろうから錯覚しているのかもしれない。
「思っている」→「行動」の間には、相当深い溝がある。
もちろん、溝のある人と無い人がいる。
私はどちらかというと無い方だ。
それは、「まず、やってみる」という事が子供の頃から身に付いているからだ。
だから、簡単な事と難しい事はやる前に分かる。
だから、それに応じた対処の仕方を最初からやっている。
それこそ身体を動かして何かする事でも、難しいかどうかはやる前に分かっている。
私はどちらかと言うと、人の発する言葉を信じる方だ。
だから「武道をやりたい」と言う人がおれば、私が歩いて来た道くらいは稽古をするのだろうと思う。
そういった信じるだ。
ところが、蓋を開けるとそんな人は一人もいない事に愕然とする。
もちろん、人はそれぞれに違うから、取り組み方も目的も違う。
そのそれぞれの目的に応じてやるのだろうと、それこそ信じている。
それは全くといってよいほど無い。
だからといって「裏切られた」とは思っていない。
その人は「そんな人だ」と思うだけだし、それも含めて人それぞれだからだ。
「思っている」→「行動」の間には、相当深い溝があるのだ。
どんなことでもそうだが、思っている事が出来ていくというのは、ある種の変化を起すという事だ。
これは実際的に相当難しい事だ。
というのは、人は変化を嫌う動物だからだ。
ホメオスタシスが働き、生命を維持しようとあらゆる器官が働いているからだし、動物は自分のテリトリーの中で生活する習性を持っている。
つまり、ホメオスタシスやテリトリーを侵すという事は、生命と関わることだと本能が注意を促すからだ。
という、前提の中で私達は生きているのだ。
がしかし、ここを破っていくのが好奇心という働きであり、感情という原動力も持ち合わせている。
大きく言えば、世界は変化を起している現代。
ここを生き残っていけるのは、この好奇心という働きと感情を発動させる、そこに尽きるだろうと考える。