「武禅一の行」2日目が始まった。自分は他人に話しかけていないことを体感してしまう
「武禅一の行」は昨日から始まっている。
なんだかまったりしているように感じる。
これは良いのかまずいのか?そこのところは、終わって見なければ分からない。
ただ、昨日の終盤近くに、沖縄から来ている男性がどんな切っ掛けか良くなったのだ。
まるで変わったのだ。
それこそ「どうして?」だ。
真正面から物事を捉えられない一つの象徴として、実際として斜めに構えていた。
それが、真っ直ぐになったのだ。
一緒に組んだ人達が良かったのか、今までの蓄積があったのか。
もちろん、そのどちらもだろう。
彼が沖縄での私のワークショップに来てからだと10数年の付き合いになる。
年月と共に、熱心になり、その結果が昨日だ。
今日5月3日も青空に恵まれている。
という事は「冷える」ということだ。
そこに負けない熱い時間になるだろう。
まずは、自分は他人に対して話をしていない、その事を体感・実感・認識する、そこからが自分への旅だ。
決して言葉で知るのではない、自分が相手を呼んでも振り返ってくれないのだ。
この時間は最初の地獄だ。
でも、地獄になるのは、認識した人だけで、客観的な人は「ふ~ん、そんなものか」と笑っておられる時間でもある。
この客観と主観の使い分けが、大方の人は逆なのだ。
主観にならなければならない時に客観になり、その逆の時に逆になるのだ。
それは、突きつけられている現実に向かうのか、逃げるのかの違いだ。
もちろん、「武禅一の行」の「一の行」の意味たる「自分の現実とのせめぎあい」だ。
朝の道場掃除が始まった。
