リアルな言葉以外は耳障りが良い
「キッカケを掴む為に量を熟す」大リーグで活躍する菊池雄星選手の言葉だ。
その通りだと思う。
でも、それは「結果論」だ。
だから間違っている、という事ではない。
「そうか」と響く言葉は、往々にして「結果論」が多い。
結果があって、そこを振り返ると「こう言える」ということだ。
その意味で、これらの言葉は体験の少ない人や、未熟な人にとっては「読み物」なのだ。
つまり、アドバイスにはならない言葉ということだ。
また、大方の人が口にする最もな言葉は「一般論」あるいは、「一般化された言葉」であって、「その人個人」のものではない。
だから、何の話か見えて来ない事が多い。
私はそんな時「何の話や?」と聞き返す事が多い。
先日の特別養護老人ホームで、係長や主任クラスに「お年寄りをどう捉えているのか?」と質問をした。
返って来た答えは「人生の先輩、自分と同じ人間」というような言葉が多かった。
つまり、自分で考えてはいないという事、私が質問したからその時に考えた答えだろう、という答えだった。
自分自身が、お年寄りと日々接していて感じ取ったり、何かしらの理想を持ち就職し現実を体験している中で、の答えではない。
もちろん「それって、何の話やねん?」と質問した。
こういう返答は、常にある。
自分の幻想だったり、他人の幻想が自分の幻想と絡み合う、つまり、自分なりの解釈から他人の幻想が同じだと思い込み、それを言葉にする。
こんなことって、もしかしたら病院に行かなければならないレベルなのではないか、と思ってしまう。
その意味で、本当に自分自身を吟味しなければ、無駄に歳を取ったということになる。
40歳を超えたら、自分自身を客観的に見る事で、自分自身を吟味してみよう。
でないと、「お前は幾つ?中学生か?」のまま、50歳60歳になってしまい、他人を理解出来ないまま明後日の世界に旅立つ事になるかもしれないのだ。
