達人を学び取る
古流の武術の型を見るのは、本当に興味深い。
それは、その型を作った宗家(達人)の考え方だからだ。
守るという事、攻めるという事をどう考えているのか?あるいは、生命をどう考えているのか?等々を、少しは想像できるからだ。
しかし、当たり前の事だが、余程特殊な家系でないと、純粋に型は残す事は出来ないのではないかと思う。
それは、同じ伝統・伝承無形文化のお祭りや舞・踊り等とは、同じ様でも根本的に異なる点を内包するからだ。
武術では「自らを捨てることで自らを活かす」という、現代では訳の分からない考え方を持つからだ。
しかし、私は「訳が分からない」とは思わない。
また、武術と言っても時代によって、考え方も変化するし戦い方も変化する。
そこに対応していたとしたら、元々宗家が意図した事とは違って来るのではないかとも想像する。
もちろん、それも含めての伝承なのだが、実際問題、現代においてそこをきちんと考えておられる宗家はどれほどおられるのだろうか、と危惧するのだ。
こういった伝統・伝承文化は、日本では家元制度という形式をとっている。
だからこそ伝承された色々な事を守り受け継がれて来ているのだ。
つまり、伝承が難しいという事だ。
裏を返せば、時代に合わせて、つまり、戦い方に合わせて型は変わるし考え方も変わる。
しかし、例えば直新陰流に残る「後来習態の容形を除き、本来清明の光体に復す」というような「技」と、それを扱う人の「自意識の問題」をクリアさせる言葉も残っている。
こういった実戦の中から極意を抽出させた人。
だから「達人・名人」なのだ。
このような、人間が社会を生きる為の極意、人間関係の極意を、宗教家でもなく学者でもなく、剣を持ち戦をしている中で気付いた人達を、伝承したいと思っても不思議は無いだろう。
自らで気付き、それを体現した人。
言葉を変えれば、仮説を立て実戦という工夫をし、そこから体現へと自分自身を導いた、という考え方。
こう抽象度を高く書けば、特殊性があまり見えて来ないが、戦という血なまぐさい実戦から「ここ」へ辿り着いたのは奇跡としか言いようがないではないか。
それが日本の文化の一端でもあるのだ。
110回「武禅一の行」は、5月3.4.5日です。
沖縄ワークショップは5月30.31.6月1日。
そして、夏の大阪ワークショップは8月1.2.3日です。
