「違い」を知り活かしているか?

私の持つ常識観と、皆の持つ常識観は違う。
それは、人はそれぞれに違うからだ。

そのそれぞれの常識観の違いを表面に出し過ぎるとややこしい事になる。
と考える常識観と、いや違いは違いで出した方が良いという常識観もある。
どちらがどう、ではなく違うのだ。

この「違う」という事を多くの人は知っているのだろうか?
本当に知っていて、その違いをちゃんと日常で活かせているのだろうか?
そんな事を考えてしまう。

例えば、道を歩いている。前から人が歩いて来る。
私は老眼だが前から来る人は見える。
だから歩き方や体の雰囲気で右へ避けるのか左へ寄るのかを見定める。

しかし、ここ20年、前から来る人は「前から来るだけ」で、前から来る人を気遣う人はいない。
当然、そのまま行くとぶつかる。
それすら分からない人が最近増えている。

私も避けるのが面倒だから、真っ直ぐに行く事にしている。
しかも前から来る人の目をちゃんと見てだ。
それでも2mくらいの距離になるまで対処しようとしないし対処しない人もいる。

常識観が違うから気遣う必要があるのだ。
それは先人の素晴らしい知恵だ。

そして、それは本能に根差した強烈な危機管理だ。

つまり、そこが薄れてしまっているというより消えているのだろうと思う。
遺伝子検査をして見る必要があるのではないかと思う。

何が退化しているのか。
おそらく、今後10年20年で、今からでも想像できないほど退化してしまう遺伝子は増えるのだろう。
生物としての「人」は相当減っていると思う。
それまでにあの世へ行ってしまおう。

東京ワークショップは12月1,2,3日です。

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