視線の力は人間力と比例する

「目を合わせてどうすんねん!(目を合わせるだけで、何が嬉しいの)」ワークショップや道場、「武禅」で始終使う言葉だ。

多くの人が、「目を見て話をしない」から、「目を見る」を入り口として行う。
すると「目を合わす」という事が「目的」になり、自分の気持ちが相手と(その人と)向い合うという気持ちの表現が消えてしまう。

基本的に会話でも「誰に」という意思というか気持ちが希薄だ。
それは、それこそ「目(視線)」に現れているのだ。

30年ほど前に「ガラス玉の様な目」とか「洞穴の様な目」という言葉で、意思や気持ちが見えない人に指摘していたが、そんな人が増え過ぎているのだ。

「目」というか「視線」は、動物には欠かせない器官や働きで、人間も乳児という時期には、母親に限らず対象のものや人をしっかりと捉える。
それは自分自身の生死に関わる本能だからだ。

しかし、年齢と共に、そして言葉を覚えると共に、そのしっかりとした視線が次第に希薄になる。
同時に言葉ではなく、全身を使って「泣く」という行為で表現していた力も希薄になっていくのだ。

とにかく、自分自身という自覚というか認識というか、それが弱いのだ。
それがまずあって、「自分が何を」と始まるのだが、それ以前に「方法」を知識として持ってしまう。

だから、方法を使う「わたし・自分」が希薄だから、その方法が方法の役目を持たず「目的」になってしまうのだ。

「武禅一の行」は、そこだけ(関係)に焦点を当てたものだ。
この講座は、当人の生の声、本気の声を引き出すもので、世界中を探しても稀有な講座だと自負している。

107回「武禅一の行」は、10月7,8,9日にあります。

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