稽古の為の稽古になっては駄目
2月の大阪ワークショップがそろそろ集まって来ました。もちろん、まだまだスタジオは一杯ではありません。
昨日の武道の稽古で、新しい発見があった。
その事は、武道の稽古に限らないが、稽古に欠けているモノがあるとしたら、それは「こころ(気持ち)」の稽古だ。
「気持ち・こころ」の次に位置する身体運動は、稽古が出来るし、その事が稽古だと思っている人が沢山いる。
沢山というよりも、きった大半の人だろうと思う。
当たり前だが、稽古は稽古であって本番ではない。
どんな物事でも、それが例え種目が決まっていて、何をするかも決まっているアスリートであっても、稽古と本番がある。
その稽古の時に稽古をする事が間違いなのだ。
稽古では、稽古の気持ちでしか動かないし考えない。
何よりも「気持ちやこころ」が動いていないのだ。
という事は、そこで動いている身体は、頭が作り出している事だ。
だから、本番のようには動かない。
そうなると、頭が働かない。
どうして頭が働かなければならないかというと、本番ではそこで起こる色々な事に対応しなければならないからだ。
稽古でも練習でもトレーニングでも、とにかく本番ではない場所で、本番ではない動きをしている。
それでは本番に役立つ稽古にはならないのだ。
「コミュニケーション」を理論的に習い、知識化しているようなもので、実際には使えない。
コミュケーションの実際は、感情の働きから生まれる即興的なものだからだ。
もちろん、伝達行為は別だ。
その意味で本番さながらの稽古の仕方を発見したのだ。
発見できたのは、ワークショップにも参加してくれていた役者で声優をやられている方が「身体塾」に来てくれていたからだ。
そこで舞台演劇論というか、その実際の稽古、表現という事での稽古について話し込んだ事がきっかけだ。
何時ものように受けと攻めに分かれる。
攻めは、頭の血管が破れるのではないか、というくらい、それこそ力一杯で、受け手の腕を握るのだ。
そして、受けては頭の血管が破れるくらいの力を込めて握られている腕を動かすのだ。
この絶対に動かさせない力に対して、絶対に動かす、という対立を作る。
受け手がどうしても動かないと悟ったら、一挙に「ふ~~」と風船の空気が抜けたように緊張を解く。
そうすると、それに連られて攻めている人が転んでしまうから不思議だ。
大きな感情は、間違いなく伝わったという事で、つまり、実際にこの感情は使えるということだ。
全身全霊での稽古。
稽古の為の稽古ではなく、実際に即した自分自身の稽古でなければ、稽古ではなくお稽古であり「ごっこ」になってしまうのだ。
2月6.7.8日大阪ワークショップin上新庄


