昨日は室伏長官と対談、感覚や身体の話は面白い
昨日は文科省でスポーツ庁室伏長官との対談をしてきた。
昨年シンガポールで行った二人の講演の話や、様々なトレーニング方法、スポーツの必要性(身体を動かす)、そして今回対談の一番のテーマ「感覚」という事に付いてで盛り上がった。
当初2時間で予定を組んでいたのだが、スポーツ庁から「長官の予定が詰まっているので1時間にして欲しい」との事だという。
前回の対談も1時間だったし、お互いに初対面でもあったので、長官は少し緊張されており話が硬く弾まなかった。だから、「ハイハイと言っといて、伸びたらしやないやん、でいこ」とこちらサイドに打ち合わせた。
「感覚」そのものを言語化するのは難しいし、感覚されている事を言語化するのはもっと難しい。
そこに切り込んでいっても興味を持つ人はいるのか?とも思う。
ま、それは別として、私としては室伏長官との話は楽しいから文句はない。
長官が考案した紙風船トレーニング。
これは相当面白い。
初心者は少し難しいので、ビーチボールの小さなものを使うのが良いようにも思った。
紙風船を使うのは、その軽く壊れやすい風船を壊さないように、紙風船を全力で壊すようにするというものだ。
この「壊さない様に、壊す様に全身に力を加える」という動作は、それこそ全身に全神経を使う。
全神経を使えるようになる、というところがこのトレーニングの眼目になる。
でもやはり、紙風船との接点の「手の平」が相当難しい。
長官に、どこからこのトレーニングを編み出したのかを聞いてみた。
そうすると、年をとってからも筋トレが必要だろうけど、バーベルを使うよりも良い方法は無いかと考え、結局一番軽いものを使うというところに辿り着いたそうだ。
こういった工夫をする事、工夫が出来る事が、実は実際のトレーニングよりも大事なのだ。
工夫は徹底的に頭と実際を使うからだ。
工夫は、当たり前の事だが「目的」が明確だから出来る事だ。
しかし、ここに落とし穴が一つある。
それは、単純にその時のその現象だけが出来るようにする工夫と、極端に現象に焦点を当てずに「目的」に則った工夫だ。
前者の場合は、目的から離れる事が多々ある。
例えば、ワークショップの定番の「肘を使う」だとすると、目的は肘の一点を知覚し、そこに焦点を当てて肘を下に降ろす事だ。
この場合の現象は、肘がスムーズに降りない様に一人が腕を握っているだが、肘が降りるとその人は転げる。
腕を下に降ろしたら転げた、これを現象として捉える人が多いのだ。
結局、その腕を握られているのが邪魔で肘の一点に集中されなければ腕は降ろせない。
降ろせないから肩から力を入れて、とにかく腕が降りるように思い切り力む。
これが前者。
後者は、とにかく肘の一点に集中出来るように、また肘の一点を知覚できるように工夫をする事だ。
だから、前者の場合は腕の力が強ければ降りるかもしれない。
しかし、肘を下す人よりも強い力の人がいれば、それは実現しない。
そこが、その人の限界点という事になる。
後者は、その場では出来ないかもしれない。
しかし、時間を積めば必ず出来るようになる。
その時、その「出来る」は「肘の一点を知覚できる→肘を操作する入り口を掴んだ」という「出来る」だ。
その人には「限界」ではなく「未来」がそこに広がったという事だ。
前者には、何もない。
その場で自己満足しただけだ。
という違いがあるのだ。
それが人生だ。
自分はどちらを生きているのか?そんな事も、ワークショップでは知る事が出来るのだ。
自分を知る「人生はここからしか始まらない」のだ。