どこまで壊れるんやろ?
雨が続いたり、滞在時間が短くて修理の時間を取れなかった。
今回は、「熱中症かな?」と戦いながら、修理を開始した。
新たな修繕必要箇所も見つかり、「ただやり続ける」という武道の稽古状態になった。
頭に日光を浴びながら修理をし「ふと思う」何の為の修理なのか?と。
やり終える為のもの?壊れたからなおす?どうしてこんな思いが浮かぶのか?それは年齢だ。
「後、何年生きられるのか?」と「後何年使えるのか」が見えるところにあるからだ。
しかし、基本練習の事も考える。
この基本練習を考えるのが面白いのだ。
現時点での私の技術から、基本を見ると昔作った基本では、ここには届かない事が分かるからだ。
当たり前だ。
現時点の私の技術は、その基本も含め様々な要素を稽古をし、それらが混ざり合って作られているものだからだ。
だから、単純に一つの稽古では辿りつかないのだ。
一つの稽古から、どれだけの要素に分解できるか?も一つの分解の仕方だ。
しかし、分解をする時に、目的となる技術の完成した姿というべき状態を想像できなければそれはできない。
どこから手を付けてどの経路を辿っていけば良いのか?そんな事を明記出来るはずもない。
それは、取り組む人がそれぞれに違うからだ。
ということになると、「基本稽古」というのは、どこから考えても、自分がどれ程の能力を潜在的に持っているのかを、見極める為の入り口だと捉えても不思議ではない。
そんな事を考えると、際限無く基本を考える事が出来る。
しかし、大事な事は「出来る」をどう組み合わせるのか?でもあり、「出来る」の精度や質をどう上げるかだ。
出来ないのに、ああだこうだと話しても埒が明かない。
「やれている事」は、何と何で出来ているのか?私は何時もそこをみている。
だから、いくらでも修正箇所を発見できるのだ。
例えば、相手が二本突きで、こちらが「横受け掛け手」で捌くとした時、一瞬でも「避けた」という身体状態が無かったか?足が逃げていなかったか?そんな事に全神経を注いで稽古をしているのだ。
私自身が日進月歩でないと面白くないからだ。
大阪来月の講習会は7月16日大阪道場
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