察するという「能力」
昨日は、事業をされている人達の席で話をさせてもらった。
こういった事業者や企業内の研修・講演は25.6年ぶりになる。
受講、あるいは話を聞く人にとって、何か特別なメリットがない限り、「良い話を聞いた・良い研修を受けた」で終わる事を実感し、その仕事を辞めた。
その場合双方にとって、ただの娯楽で終わるからだ。
久しぶりの登壇は、対談形式にして貰った。
それの方が、私から聞きたい事を的確に引き出して貰えるからだ。
1時間チョイの話は、良い感じ(主催者の感想)で終わったようだ。
打ち上げもあり、その最後で質問で「日本人の特質というか、外国の人との違いはどんなところでしょうか」というザックリと、ほんとにザックリとした質問があった。
その場、その人、そしてその人達にマッチした答えを探した。
といっても、頭の中を検索するのではなく、「ふと」を待つ。
「察する能力が備わっていた事」だろうと、その人に話した。
もちろん、他にも色々あるだろうが、察するは間違いなく「本能」と直結した能力だからそれを選んだ。
以前、武神館初見宗家を分解し日本の文化と照らし合わせた本を書いた、「こころの象(かたち)」だ。
ここにも「察する」という事で展開した事がある。
この本を仕上げた当時と、現在の私を比べた時、現在の方がより深くなっているので、この「察する」も「本能から」だと繋げられたのだ。
察するは、文字通りで敵か味方か、食料か食料ではないのか、危険か危険ではないか等、生命と直接関わる事を察知する能力だ。
もちろん、これは全人類が持つ能力だ。
人は生物であり動物だからだ。
しかし、その能力の延長として、他人の気持ちを感じ取ったり、場が欲求していることを察知する文化に引き上げているのは日本人だけだ。
と言っても、今ではそこを直感が働く察知ではなく、論理を働かせる推理にとって変わっている。
察知と推理は、現象として似てはいるが、推理は出来る事と出来ない事、つまり、既に情報を持っていなければできない事と、情報を新しく感じ取るという根本的な違いがあるが。
2025年大阪ワークショップ 1月31-2・2日