自然に、とは?
熊野に帰ると、碧い香りが押し寄せて来る。
春というよりも夏に入る気配だ。
「あおいかおり」と書き、思わず「碧」という漢字を使ったが、それだけ「アオ」があるとは漢字を見て気付いた。
「そうやった」と。
これだけ感性が繊細な民族は、地球上にもそう多くはないだろう。
そんな事を思った。
もちろん、私にその感性が有るとは思えないが、少なくともこうして「これではないだろう」と探求する感性はある。
しかし、若い人達が、何でも「かわいい」だの「やばい」だので片付けているのを見て、間違いなくそんな深い感性は消えていくのだろうというのも分かる。
しかし、そういった感性など必要ないのではないか?と思う人も沢山いるだろうし、理工系の人なら余計無駄だと思うのではないか、とも思う。
もちろん、思うのは自由だが、その前に自分自身は生物なのかどうなのかを見詰めなおして欲しい。
人は間違いなく生物で、間違いなく動物だ。
であれば、自然界の営みと同期、あるいは同調していて当たり前だ。
アフリカの大地に住む野生動物と同じようにだ。
そこを完全に忘れ、自分の都合だけの「自然」であり「生物」だとしているのが人だ。
野生の動物は、死を持って生を完結するし、それが出来るが、人間だけは「死」が自然ではないのだ。
改めて「死とは」等と認識しなおさなければならないのが人間だからだ。
「108回武禅一の行」行会です。残席は5席です。