失敗や間違いは、創造的な証拠やで
失敗するのは嫌、間違うのは嫌、だれでもそうだろう。
私も人一倍それだ。
失敗するのは嫌だから、失敗する自分に激怒する。
「あほか!ぼけ!」だ。
振り返ると失敗の連続だし、間違いの連続だ。
未だにやらかしている。
それは「アホの証かボケの証拠か?」
もちろん、そのどちらでもない。
何かしら新しい事に挑戦し続けている証拠なのだ。
歩き方や身体の使い方、自分自身の昨日よりも何かを進化させようと工夫を続けている。
だから、うまくいかない、失敗の連続だ。
「失敗しない・間違わない」という生き方や仕事をしようしたら、何もしない事だ。
絶対に新しい事や自分を成長させるようなことをしない事だ。
そして、新しい仕事も、新しい人間関係も作らない事だ。
部屋に引き籠り、何で食べて行くのかは知らないが、とにかく人と関わらず、何もせず生きていく事だ。
そして10年ぶりにあった人に「何も変わらないね」と言われて喜んでいる事だ。
自分で考えて何かに取り組めば、必ず失敗や間違いがある。
その事で止まるのは、現実を自分の力で歩いていないからだ。
つまり、自分自身に対しての現実感と客観性が育っていないから、現実離れした言葉を使うし持っている事が出来るのだ。
また、失敗したら「周りから笑われるのが嫌」「自分を否定されるのが嫌」という意見もあった。
それこそ「あんたは馬鹿?アホ?」それこそ間違いなくそのどちらかだ。
もし自分を否定する人が周りにいたり、笑う人がいたとして、「あなたはその人達に生活の面倒を見て貰っていますか?実際、何も関係の無い人でしょう。どうだっていいじゃないのではないですか?」
私が息子にも話したのが「誰かに馬鹿と言われたら、お前は馬鹿になるのか?」だ。
なる筈も無いだろう。
つまり、他人の言葉など、こちらの解釈次第で無視も出来るし噛みつく事も出来るし、嬉しく感じる事も出来る、自分次第のものなのだ。
現代は、そこを一元的に捉えているから、つまり、一方通行的に捉えている、それこそ現実離れした解釈が起こっているのだ。
それは、「関係」そのものを体感しながら生活をした事の無い人が、規則やルールを作り出している事が問題なのだ。
5月3.4.5日は、人間関係に特化した「108回武禅一の行」行会です。残席は5席です。