ワークショップには興味ないのですが!
何十回目かの東京ワークショップは、昨日打ち上げと共に終わった。
現実のハラスメントの話しや、返事の出来ないどうでも良いような話し。
日本酒をワイワイ楽しく終わった。
以前も書いたと思うが、数年前なら打ち上げの梯子で終電車が無くなり、それで朝まで、というパターンが定番だった。
私の年齢や常連の受講者が年をとっており、疲れが出ているから終電車で終わりが現在の定番だ。
それと、東京に限らず、大阪のワークショップでも、「どういうこと?」と頭をひねっても理解不能の受講者が増えて来ている。
今回は、「ここまで日本人は劣化したのか」と思わせる青年がいた。
「私はワークショップには興味は無いのですが、身体を思い切りうごかすのかな?と思って来ました」
と発言したのだ。
「えっ、興味が無いのに来た?しかもそれを皆の前で発言する?」とは切り返さなかった。
切り返したら、私自身が爆発してしまうからだ。
もちろん、大多数の人は凍り付いた感じになった。
後から「先生がキレたらどうしよう、とドキドキしてました」という人までいた。
いや冷静に叱る事の出来ない現象だと、その青年を見ていて思ったからだ。
きっと、俗にいうクレーマーと呼ばれるような親に、育てられたのだろうと思ったからだ。
そうなると、その発言は青年の問題ばかりとは言えない。
その意味で、呆れてしまって「叱る」という行為は出なかった、反応しなかったのだ。
この青年に限らず、色々な意味で人は「日本人離れ」して来ている。
それの典型は、自分で考えるという事を殆どしなくなっている感じがする事だ。
「説明」を求められる事が非常に多くなっている事で体感するのだ。
物事を考える醍醐味は、パズルを解く様なものだ。
自分の力で解くから「自分のもの」になるのだが、説明として頭に収納されると、それはPCに保存したようなもので実体に対して働きかけが起こらないのだ。
ワークショップに興味は無い、と言っていた青年が、1コマ終わってから「胸骨操作を家でもやりたいのだが、どうすれば良いのか?」と質問して来た。
「それは自分が『そうしたい』と思った事でしょう、であれば、それはあなた自身から出たあなた自身の問題だから、あなたが答えを出さなければ意味も価値も無いよ、頑張って考えてみて!」と応えると腑に落ちない顔をしていた。
自分が疑問や問題を持った時、そこに答えというか、何がしかの事が与えられ慣れをしていると、こういった場面で立ち止まってしまうのだ。
もちろん、それはその子供や青年のせいではない。
親や環境のせいだ。
だから仕方が無いのだが、「答えを与えられたり、説明を与えられるのは、自分の能力を育てないから駄目だ」と自分の力で気付かなければ駄目なのだ。
そういった出来事が増えて来ているのだ。
「面倒だからワークショップも止めようか?」とも思う。
しかし、それではこの現状をどうにかする事は出来ない。
どうにかすると思っても、問題が深すぎるし広すぎる。
そうなると、せめて自分のまわりだけはもっときれいにしようと思う。
では、ワークショップは「大人の為のワークショップ」と変更して行おうか?