阿吽の呼吸はどこにでもあった
「阿吽の呼吸」は、日本の特技の様に思われているが、そうではない。
そんなことは、世界中至る所で行われている、高度なコミュニケーション術だ。
例えば厨房の中で、例えば、レベルの高いパーティ会場で、例えば、多くの人に気づかれない様に事を進める時だ。
ただ、職人さん達の現場以外では消えていってるとは思う。
ちょっとした顔色の変化、表情の変化、仕草の力み具合 等々を読み、次の手立てを打つ。
私は、こういった「一寸した」が好きだ。
私が「阿吽の呼吸」を覚えたのは、水商売でママとの会話だ。
会話と言っても声や言葉を使わない。
目配せだけだ。
もちろん、それを習ったのでも教わったのでもない。
それができなければ、使い者にならないから雰囲気で覚えていくのだ。
「使いものになる人」そんな言葉にも憧れていたのを思い出した。
「高級なブランデーを出せ」「もうタクシーを呼んで客を帰らせろ」色々ある。
もちろん、そう言った定番もあるが、何をか覚えていないが突発的なものも多かった。
「日野ちゃん、ほんなら頼むよ」「はい、分かりました」
今では、考えられない会話が多かった。
しかし、それはそう難しい事ではない。
流れを読んでいれば分かる事だ。
という直感が働かない人には無理だが。
その意味で、そういう「場の動き」を観察し理解できなければ分からない。
今なら「ちゃんと言ってください」となるだろうし、聞き取る側の能力を高める様な言葉、「場を見て推測しろ」と言葉を吐くとパワハラになる。
つくづく馬鹿を生み出す社会構造になって来ていると思う。
ジャズバンドの時も、殆どがこの「阿吽」だ。
合図ではない。
エンターティメントのステージでは、言葉は野暮だし、全体の流れを壊す。
40分間曲を一切止めずに客を楽しませる。
そんな仕事も好きだった。
究極の即興も「阿吽」だ。