バーテンの世界は徒弟制度に近かったから「どうすれば」は教えてくれないから良かった
当時の喫茶バーテンの世界は、ある意味で徒弟制度のようなものだ。
私のような見習は、言われた仕事をするだけだ。
しかも、「仕事」例えば「リンゴを剥け」とか「じゃがいもを剥け」と指示はあるが、「どうすれば」は無い。
誰も教えてはくれないし、当時は教えを乞う事は「恥」だった。
私はどういう訳かは知らないが、この「教えを乞うのは恥」を小学生の頃から知っていて、そういう生き方をしていた。
「どうすれば」は、先輩達がやっている仕事を見ていれば手に入れる事が出来る。
その意味で、どれだけ観察力を持っているか、その仕事に好奇心を持っているかが、その時点で問われるのだ。
もちろん、同時にそれらの能力を磨けるのだ。
当時、見習で入ってきた人に、30歳位のホワイトカラーからの転職者がいた。
最初は、年長者だから丁寧に接していたが、仕事ぶりを見ていてイライラした。
言われても出来ない、出来ない事を工夫してやれるようにしない。
何もできないのだ。
見かねた先輩達が、「どうすれば」を教えていた。
仕事に対して意欲が有るのか無いのか分からないが、それでも憶えが悪かったのを憶えている。
きっと、頭の中で憶えようとするからだろう。
つまり、やる事を言語化するから抜け落ちる事が出て来るから、結果「出来ない」になるのだ。
その「教えを乞うのが嫌い」の典型は、著作やブログでも度々紹介している、中学の頃の器械体操体験だ。
1年の時から、体操クラブに入ったが、誰にも教わらず友人と3人で研究・工夫をした。
私が天王寺図書館で「体操競技」というタイトルの本を見付け、それを参考にしたのだ。
結果、初めて出た中2の春の大阪府の試合で総合7位、
続いて行われた大阪市の大会で4位。
それで大阪市の代表に選ばれ、三都市大会の鉄棒で最高得点を叩き出した。
その後は、オリンピックの強化選手に選ばれた。
これは、同じ体操クラブの誰よりも良い記録だった。
また、強化選手といっても、当時は地方地方で活躍している選手を集めての研修会のようなものだった。
ま、何れにしても「教えを乞わない」を貫いて得たものだ。
もちろん、大会で結果を出した事も大事だが、この体験が、私の自主性を完全なものにしたのだと思う。
とにかく「自分でやれ」「自分がやれ」なのだ。
教えられてやれるようになるのも良いが、そうすると言葉に出来ない何か、獲得するまでにかかった葛藤や工夫を飛び越えてしまうから「やれただけ」になってしまうのだ。
バーコートを着たいという希望は、直ぐに実現した。
チーフにお礼をいって辞め、小さな喫茶店を仕切る事になったのだ。
しかし、バーコートを着たが仕事は単調極まりなかった。
何よりもイラついたのは、私がその店で十分に通用したからだ。
まさか通用するとは思っていなくて、そこで知らない事を色々学ぼうと思っていたからだ。
「なんや、こんなもんか」まだ17歳にもなっていない16歳の時だった。