屈辱であり恥だ、という意識が「くそ~」を生んだ。感情的な言葉が感情を育み私を人並みにしてくれたのだろう。
「日野君、飲んでごらん」私が入れたコーヒー40人分を全部流しに捨てられた。
これは私にとって屈辱であり恥だ。
だから「くそ~」であり「見とれよ」になるのだ。
もちろん、初めて入れたコーヒーなので、美味しいコーヒーになる訳はないし、そんなものをお金を払うお客さんに出せるわけもない。
しかし、それはあくまでも客観的な判断だ。
そんな事はどうでも良い。
私にとって、その事実に対する慰めにも僅かな力にもならない。
慰めはいらない。
私の入れたコーヒーは確かに美味しくないのだから。
必要なのはその言葉、「日野君これはお客さんにだせないで」だけだ。
それを「受け入れて」という冗談はない。
間違いなく「まずいコーヒー」をいれたのは私だからだ。
私はその瞬間茫然とした。
その頭の中は40人分のコーヒーを損失させてしまった、という責任感が働き「茫然とした」のだ。
「すみません」としか言いようがない。
何に対して発したのかは覚えていないが、とにかく「すみません」しか無かった。
これは現代で言えば「ハラスメント」なのか?
チーフが私に言いようがあったのか?
現場ではグダグダいうよりも、「アホか!」で全てが分かるし、本当の事だ。
この当時、もし「アホか」が分からないなら、仕事が出来ない奴と烙印を押されただろう。
そうなると、皆から相手にされなくなり、それはどうでも良いような仕事しかやらせてもらえなくなる、という事に繋がるのだ。
また、チーフや先輩たちの感情的な言葉が、私の感情を反応させ「悔しい!」という感情に火をつけてくれた事もある。
感情は間違いなく反応する。
そこが無いと「強さ」は育まれないのだ。
そうなったらやるべき事はリンゴ剥きと同じで練習しかない。
喫茶店は早出と遅出に分かれているので、早出の時は本店へ行き、本店のチーフに頼んでコーヒーを入れさせて貰うように頼んだ。
本店は店の規模が小さく、またお客さんの数も支店とは比べ物にならないくらい少ない。
だから、少量のコーヒーならもし捨てられてもさほどの損失にならないのではないか、と思ったからだ。
それと本店のチーフからは、どういう訳か気にかけて貰っていたからだ。
リンゴ剥きもジャガイモもレモンも食パンも、本店で仕上げを見て貰ったのだ。
ここでチーフに「大丈夫」と太鼓判を押して貰った。
コーヒーを入れるのも、数日でコツを掴んだ。
後は、そのコツを数重ねて確かなものに仕上げるだけだ。
その為には、支店のチーフがもう一度「日野君コーヒーを入れてみるか」と言わなければならない。
でもしゃしゃり出る分けにはいかない。
思い出せば、その時のセカンドにも可愛がって貰えていた。
セカンドは少しやんちゃな感じがする兄ちゃんだった。
その感じが私を引き寄せてくれたのかもしれない。
私はセカンドと休憩が同じになるようにして、コーヒーの話をよく聞いたものだ。
もちろん、本店での練習など口が裂けても言わない。
「練習は人に見せるな!」これは私の美意識だ。
これは何処で育ったのだろう?
東京ワークショップ12月2.3.4日
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