人は人の影響を受け人並みになる、それは思春期だからこそではないかと思う。
「影響を受ける」とよく言うが、私はこの思春期の時期あらゆる人達の影響を受けた。
だから「私」が育ったのだろうと思う。
やんちゃそうなセカンドは、確か数ヶ月で辞めた。
それは、郊外の喫茶店へ引き抜かれたからだ。
所謂ワンバーテンで、何もかも一人で切り盛りしていくのだ。
それは、多人数で役割分担していた厨房仕事とは全く違うので、セカンドにとっては挑戦だったと思う。
ある早出の時、仕事を終えセカンドの勤める喫茶店をのぞいてみた。
「いらっしゃいませ」セカンドの声だった。
オープンカウンターで糊のきいたバーコートに棒の蝶ネクタイが良く似合っていた。
「日野君、久しぶり」セカンドの人懐っこい顔の中に、いかにも充実している雰囲気が眩しかった。
この糊のきいた真っ白のバーコートや棒タイの蝶ネクタイを初めて目にし、一瞬でその姿に憧れた。
今、ここで書いているエピソードは、1964年東京オリンピックの年の話だ。
新幹線も開通した年だ。
この年の10月に大阪・梅田に富国生命ビルが建ち、そこの地下にオープンした喫茶店で働いていた頃の話だ。
コーヒー1杯120円の単価で、1日100万円売り上げていた大繁盛店だ。
そして私は思春期真っ只中16歳だ。
後から考えれば、思春期に色々な大人と出会ったから、そして大人と対等に仕事をしようとしていたから影響を受けられたのだろうと思う。
何よりも多感の時期だから感情と社会性もほどよく育ったのだろうとも思う。
この時期を振り返っても、どうしてこれだけ記憶の時間軸がグチャグチャになるくらい色々体験できたのかと思う。
きっとこの時期の時間は、相当密度の濃いものなのだろう。
それは、人として成長していく為の、様々な問題を一挙に解決してしまう根本を育てる為の時期だからではないかと思う。
この時期を逃すと、「理解優先」になるので、ギラギラの感性は妨げられ、つまり、野生が消え家畜化された状態になる。
そこから身に付いた価値観に疑問を持っても、これを覆すのは至難の技だと思う。
一瞬でバーコートに憧れた、それは、私の次の駅を示唆したという事だ。
「あれを着たい」無意識的にそのバーコートの姿が染み込んだのだろうと思う。
それでも、自分の仕事に精を出していた。
後から入って来たセカンドとは折り合いが悪かった。
○○のバーテンダースクールを出たという。
私としては、そういう事は知らなかったし、別段仕事がテキパキと出来たのではないから「それが?」という感じだった。
何よりも喧嘩なら負ける気がしない奴だったので「能書きほざいておけ」だった。
早出の時は、相変わらず本店に通いコーヒーをたてたり、フルーツ物の盛り合わせも作らせて貰っていた。
そんなこんなで、こちらの方が私にとっては居心地が良かった。
ある時、本店のチーフに新しく来たセカンドと折り合いが悪く、偉そうにしている事を愚痴った。
チーフは「色んな奴がいるからな、特にバーテンは癖が有る奴が多いから気を付けや」と話してくれた。
結局、そのセカンドとは喧嘩になってしまった。
仲裁に入ってくれたのは、本店のチーフだった。
私が仕事を終えてからずっと本店を手伝いがてら、喫茶のあらゆる勉強をしていたことを支店のチーフに進言してくれたのだ。
結果、セカンドが首になった。
そうなると、私はフルーツ担当に格上げされた。
ここでもっと嬉しい話が舞い込んで来たのだ。
バーコートを着る事が出来る話だ。
東京ワークショップ2.3.4日
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