嫌ならやめれば良い、を行動する時には条件がある

もちろん私に「好き・嫌い」が無くなった訳ではない。
確かに有る。
しかし、固執する事は無い、その程度の何かだ。

というよりも、「好き・嫌い」が自分のものになっているので、改めて意識に上がるものではないのだ。

どんな事でも同じだが、そんな事を口走ると「どうしてそれが出来るようになったのか?」という質問が飛んでくる。
出来るようになったのは、それを徹底的に考え行動をしたからだ。
それ以外にどんな手段があるのか、私には分からない。

この「好き・嫌い」という選別の癖は、幼児期やそれ以降の生活の中で養われたもの、あるいは、生まれつきの方向性が根本だろう。

私が食生活に余り興味を持たないのは、幼児期からの食生活に原因がある。
曾祖母に育てられたので、曾祖母自身の食生活がそのまま私になっているからだ。

もちろん、それをどうこうではなく、そうだろうというだけのものだ。

選別の癖が幼児期からの生活で培われたとして、そこを振り返ると「好き・嫌い」は変化している。
しかし、それも思春期辺りまでではないかと思う。
それ以降は、定着してしまっているので、大方の人は思春期を引きずっているのだ。

定着してしまっている、というのは、無意識的に「好き」な方向に生きている筈だからだ。
もちろん、それが「楽だから」でもある。

この「好き」には「興味深い」という要素が入っているからだ。
しかし、「興味深い」と感じ進んだ道でも「嫌なこと」は山ほど現れる。
そこで重要になるのが「強さ」だ。

「嫌な事」に打ち勝つ強さだ。
これも体験し体感し続けなければ超えていけない。

もちろん「嫌なら辞めればよい」も間違いではない。
但しこの言葉を発するには条件がある。

「嫌な事」に打ち勝つ力が付いているならば、という条件だ。
打ち勝つ力が付いているとすると、「嫌なら辞めればよい」を行動するのは正解だ。

それは、打ち勝った体験が何がしかの智慧を獲得しており、そこからの直感が作用している「嫌なら辞めればよい」だからだ。

東京ワークショップ12月2.3.4日

残席数は http://kandabudo.jugem.jp/

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