好き・嫌いという感性は、磨かなければ幼いままだ

無意識的に「好き・嫌い」を価値観を決める定規にしていたのに気付いたのは1968年20歳の時だ。
ジャズを生業とする、と決めてからの事だ。
しかし、不思議な事にジャズ、そしてドラムに決めたのは「好き」だからではない。

友人がアルトサックスを持ちジャズの世界に入ったのが高校2年生だ。
その事を羨ましく思ったのと、水商売に飽いていたからだ。
飽いたからといって辞めても生活の手段が無い。
そこで、何も知らないジャズでありドラムを選んだのだ。

本題の「好き・嫌い」を価値観を決める定規にしていたのに気付いたのは1968年20歳の時だが、今思い起こせば、その兆候は14.5歳にあった。
中学生の頃、ギターのナルシス・イエペソの「禁じられた遊び」を弾けるようになるのが一つの憧れでもあり、それが好きだった。

そんな頃、たまたま知り合いのレコード屋に行った時、そこの兄ちゃんに「アキ、もっと他のプレイヤーのも聞いてみ」と言われ、手始めにビセント・ゴメスの禁じられた遊びを買った。

「何これ!」ゴメスは、フラメンコギターの名手だったから染みるような曲想ではなく、情熱的で違った意味でこころに染み入った。
日本人の伊部晴美や、数人の禁じられた遊びを聞いた。

つまり、「比較する」という考え方を改めて知ったという事だ。
その事で、つまり、音楽を通して「それぞれに違う」という考え方も体感・体得した。

こういった下地があり、自分の価値観を決めていた「好き・嫌い」では、本当に良いものを得る事は出来ないと頭を打ったのだ。

マイルス・ディビスが好き、エルビン・ジョーンズが好き。
その場合の好きは、「世界一のミュージシャン」という意味も含まれている。
だからこそ、その「好き」に疑問を持てたのだ。

もしも、マイルスが世界一のミュージシャンなら、他に素晴らしいミュージシャンはいない事になる。
ジャズが一番なら、それ以外に素晴らしい音楽は無いことになる。

そのように極端に考えてみた。
もちろん、答えは「ノー」だ。

「そうか、自分の『好き・嫌い』という幼稚な価値観は、世界を狭く見ているだけだ」と知った瞬間だ。
それから様々な音楽を耳にした。

同時にそれは、私の「好き・嫌い」という癖が磨かれる、つまり、感性が磨かれる方向に進んだのだ。

「好き・嫌い」は、多分誰にでもある感性的反応だ。
それを磨かなければ、低次の感性的反応しか起こらない。
その事に気付いたのは、それから20年後くらいだ。

ブリュッセルの小便小僧
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