切り口で見方が変わる

切り口は大事だ。
「青色」というテーマで、ピカソを論じていた。
ストーリーがあると、見ていたものが変わると実感した。

しかし、そのストーリーを知らない時に見ていたものは、一体何だというのだ。
もちろん、私自身の感性であり、私自身の知識の集積だ。
いずれにしても、「そのもの」は見えていない事になる。

ここで問題になるのは、「感性」だ。
私は、ジャズの時代から、この感性に興味があり、それを確かめていた。
むろん、私の感性は私自身のものだ。
と言い切れるのか、ということと、言い切りたくないという背反した考えがあった。

言い切りたくない、というのは、普遍的な何かがあり、それは人類、あるいは、動物全般と共通しているもの、という期待だ。
だから、感性の質を常に確かめていたのだ。
例えば、マイルスの演奏で、アットフィルモアがある。
これを良しとした時、何がどう良いのか、を探り出し、他のミュージシャンやアーチストの作品とを比べていた。
つまり、深い一点で繋がらないかと探していたのだ。

これは同時に、自分の感性をより確かなものにする作業だったと、今になって気付く。
そうなると、その逆に「気付いてどうするの?」という、私の意見が顔を覗かせる。
そういった堂々巡りが私の人生のような気がする。
ただ、単純な堂々巡りではなく、それは螺旋状で昇華しているものだ。

と考えたい。人とは厄介なもので、否定すると同時に肯定もしてしまうのだ。
もちろん、厄介なのはこの「思考する」という作業を持ってしまうからだ。
これさえなければ、否定も肯定も螺旋状もない。
どうすれば、思考の無い世界に行けるのか?

もちろん、「死」でしかないのだろうが、それも思考の産物だ。
よく、臨死体験をした人の死後の世界の話がある。
もちろん、死んでいないからこの世にいるのだ。
つまり、臨死体験というのは、医学的な死、科学的な死、つまり、文化的な死であって、生物的な死ではないのだ。

では、切り口やストーリーとは、一体何なんだ?

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