死生観は?
奈良・田原本町、和歌山から近いと思ったが、「ナビ通り」を通ったから遠かった。
よくある話だ。
ま、セミナーには間に合ったので良しとする。
一泊し大阪に行のにナビを使うと別の良い道がでた。
これに繋いだら、和歌山からずっと近い。
機械も人と同じで、グレー部分が多くある場合はうまくいかない。
懇親会では色々な話題で盛り上がった。
「死」を想像し怖くなったと女性。
で、私の死生観を問われた。
「死生観、そんな大層なものはないで、リアルに自分という存在が無くなるだけや、だから、今やっていることを一生懸命するだけやで」と答えた。
極論を言えば「死生観」というものは幻想だ。
つまり、「死」という自分自身が辿り切れない現実を、どう解釈しているか、という問題だからだ。
「死」というのは事実でしかない。
そこに人それぞれの思いが乗っかっているだけだ。
死に対しての装飾だ。
それは、それぞれ自由に思えばよいだけで、そこに正誤はない。
ただ、装飾だと認識しているのかどうか、装飾を持ちすぎると、その実際が覆い隠されてしまう。
大方は、それが目的なのだろう。
「死」は受け入れるものではなく事実だ。
だから、それを考える必要はない。
考えたり思い悩む暇があれば、目の前にある仕事をしろ、だ。
それが死の正反対の生きているということなのだから。