動物でもない

先程まで、カナダから帰国した鍼灸師と一緒にいた。
声の話になり、声はどう作られて行くのだろう、という疑問だ。

薄っぺらい声や胡散臭い声、理知的な声、嘘くさい声、しっかりした声、幼稚な声等色々ある。
飲み屋で耳を澄ますと、まず、理知的な声は聞こえて来ない。
誰に向かって話しているのか分からない声ばかりだ。
当然やかましい。

静かに話せということでは無い。
その相手に本当に話したいのか、という事だ。
話したくも無い相手と話しているから、当然声は散る。

話したく無いとも思っていないのかもしれない。
話したい、話したく無いという選択肢を持たないのかもしれない。
相手に話す、という意思がないから、声だけが大きくなるだけだ。
「お前、誰に話しているんや」よく言うセリフだ。

話したくもない事、話しても仕方のない事が口を突いて出ている。
そういった事を感じる感性は、どこへ消えていくのか、あるいは、そもそも育っていないのか。

度々書くように、動物は対象のものがあるから吠えるのであって、むやみやたらと吠える事はない。
必ず対象のものを捉え吠える、あるいは泣く。
声を出せる、言葉を知っている、たったそれだけでコミュニケーションだと言うな。
動物のレベルにもなっていない人に限ってコミュニケーションと言う。

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