感情を

感情表現という言葉がある。
それは、自分自身の感情を表に出すことだ。
しかし、改めてということではなく既に出ている。
無表情であれば、無表情、つまり、周りに対して、あるいは、自分自身の内で感情が動いていないということだ。
街で行き交う人が、それであれば、まるでロボットの世界に住んでいる気になる。
東京へ来てからは、大方そんな気分にさせられる。
もちろん、その人たちが自分の時間、自分の心の許せる場に出るとそうではないのかも知れない。
と思いたいが、それは一部の人だけだろう。
大方は悪い意味での能面のままなのだろう。

もし、それが家族であれば、そしてそこに子供がいるとしたら、その子供はどんな大人になって行くのか。
それは火を見るよりも明らかだ。
殆ど間違いなく、能面の様な大人になるだろう。
まるで無人島で暮らす人の様に、自分という存在を意識しないまま育ってしまうのだ。

自分という存在を意識しない、というのは、集団の中での自分自身、社会の中での自分自身を、という意味だ。
つまり、自分自身の能面が、集団に及ぼす影響として、ということになる。
そう書くと、集団に迎合したり、社会に迎合する、と捉える人が多数いると思うが、そうではない。
そんな表面的二次元的な意味ではない。
社会に迎合をする必要はないし、しては駄目だ。

どれだけ社会が変化しようが、あるいは、集団が変わろうが、「人」と共に生きなければ仕方がないのが人だ。
という中での自分自身という意味だ。
感情を豊かにする事が、心を豊かにすることに繋がる。
泣いて笑って怒って、それが人間だ。
そこから、物事を考えるということにならなければ、考える根拠が間違っていれば、どこまで行っても理屈の世界で終始する。
そうなると人間である意味は無い。

AIの方が遥かに優れているだろうからだ。

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