一寸ややこしいかな?
先日TVで、京都を特集していた。
その中で300年続く老舗旅館の伝統の話があった。
女中さんがお客さんをもてなすという仕事の事だ。
私は「おもてなし」は気遣いだとしていた。
ここでは「気配を感じ取る」という。これは気遣いよりも深い言い回しだ。
私は、武道でも明鏡塾でも「雰囲気やで」と、気配に似た言葉を使う。
気配を感じ取る、あるいは、雰囲気を感じ取るというのは、そこにある「関係」そのものだとも言える。
いずれの能力も、社会生活では必須のものだし、それは生命体として備わっている能力だ。
生命体として備わっているということは、他の生命体や環境に対しての能力ということだ。
ただ、それが使える能力として表面に現れているか現れないかだけだ。
使える能力として現れると、後は自分の仕事や関わりに役立つように、それぞれの専門的な方向に洗練させて行くだけだ。
ここでの障害物は、何時も書く「判断や理解」だ。
これが働く限り、生命体としての能力は必要では無くなるからだ。
また、昨日も書いた「野次馬」なら無理だ。
こちらは、判断以前の問題だ。
野次馬がどうして無理かというと、判断する自分自身が無いからだ。
あるのは、「興味本位」があるだけだからだ。興味本位は言葉を替えれば「意識散漫」ということになる。
と書いていけば「矛盾」が見えるだろう。
判断や理解が、邪魔だとしながら、野次馬に関しては「判断する自分が無い」と続いているからだ。
ここに、能力と考える力の相関関係があるのだ。
能力を伸ばすのは、間違いなく考える力である。
考える力を使うことで、判断する自分や、理解することで終わらせてしまう自分を管理できるのだ。
全てはこのように立体構造になっているから難しいのだ。
こういった人の仕組みを元に身体を考えなければ、大方の人の捉えている身体は「解剖された肉体」である。
そこに、どこかから借りてきた精神とか、こころといった言葉が乗っかっているだけだ。
だから、実際には使えないのだ。
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