自分自身に野次馬ではどうしようもない
「野次馬」が群がって、◯◯の邪魔をする。
よく耳にする言葉だ。
道場やワーク・ショップを受講する人で、何か違和感を感じる人がいる。
どうもその正体がよく分からなかった。
「何故、道場に来られたのですか?」と質問すると「興味があったから」と答えてくれる。
私はその「興味がある」という言葉の真意について理解できなかったのだ。
理解できないとなると、私の使う「興味」に引き寄せてしまう。
つまり、「興味があったから」と答える人に対して、相当善意に解釈していたということだ。
ただ、興味があるにしたら、その取り組む姿勢から余りにも熱意を感じられないから、「どういうことか?」と答えを探していたのだ。
先日、ふとその答えが浮かんだ。
そうか彼らは「野次馬」だったのだと。
そこで辞書を引き直して見ると、「野次馬とは、自分に関係の無いことで、興味本位で騒ぎ立て見物する人。人について嗅ぎ回ること。人々」と辞書には書かれていた。
まさにそうだ、だから違和感を覚えていたのだ。
「興味本位」という事がその全てを物語っている。
その意味としては、「(1)面白いか、つまらないか、という観点をもっぱらの基準とするさま。「 興味本位で知性の深みがない本、と酷評された」などのように用いられる。 (2)純粋に興味に基づいて、単純に面白そうだと思ったから、といった意味合いで用いられる表現。「 この夜更けにどこに向かうのかと、興味本位で訊ねた」などのように用いられる。」とある。
完全に合点がいった。
しかし、そこは合点がいったが、ではその野次馬根性の人は、自分自身と関係の有ること無いことの区別がつかないのか、が分からない。
「馬鹿か?」だ。
自分と関係の無いことに興味を持つのは、全てが野次馬だとするのではない。
社会生活においては、どんなことでも自分と関係があるからだ。
しかし、そこには自分自身に関係づける力が必要になる。
関係づける力というのは、自分自身に対しての興味の深さと関わってくる。
「人のふり見て我がふり治せ」が、自分自身の性根の中に持っているのかどうかだ。
自分自身に対して興味が薄い人は、浅い興味でとどまる。
野次馬であり、野次馬根性だけの人、という事になる。
しかし、それでは私は致命的だと思う。
「自分自身に対して興味が薄い」、というのであれば、誰が自分に興味を持ってくれるというのだ。
自分自身が自分自身を教育していく、育んでいく以外に自分自身を成長させる為の一切の手立てはない、ということを、余りにも分かって無さすぎるのには驚く他はない。
野次馬も結構だが、自分自身に対して野次馬なのだから、どうしようもない。
しかし、ここにも面白い現象がある。
自己分析が既に野次馬の人が沢山いるからだ。
つまり、いくら自己分析をしても、それ自身が野次馬だから、つまり、興味本位だから、自分の何かを成長させることにはならないのだ。