公式を作り出すのは自分だ

つくづく机上の勉強や学びでは、人そのもの、あるいは、自分そのものが見えてこないと改めて認識した。
その意味での「作業療法」が、人には必要なのだ。
一つの事から芋づる式で考えたり、空想のように飛躍してみたり、思考は自由に飛びかえる。
しかし、実際として思考のように作業が出来るのか、というとそうではない。
そんな事も考えてみる。

愚息が小学生低学年だった頃、算数の応用問題で行き詰まっていた。
何をしているのだろうと、行き詰まっているところをのぞいてみた。
「何してんねん?」「分からないから考えてるんや」「
ふ〜ん」と、一旦は終わったが、フト「分からないから考えている」という言葉に引っかかった。
分からないことは、考えたら分かるものなのか?と引っかかったのだ。
愚息の一つの出来事が、根本的な事を考えさせてくれたのだ。

その算数の問題を読んでみた。
そして、これが分からないと愚息は言う。
教科書を戻っていくと、基本的な考え方が書かれていた。
この「元に戻ってみる」という考え方を持っていないと、「分からないから考える」という意味不明の言葉を使ってしまうのだと、その時に認識したのだ。

この場合は、算数の問題だ。
そして、それは客観的材料として、自分自身の外にある。
であれば、分かるところまで戻れば良いだけで、決して「考える」という作業ではない。
つまり、たいそうな事ではないということだ。
学校では、前に進むことばかりで、こういった肝心の事を教えない。

何が肝心かというと、「出来なければ出来るところまで戻る」「分からなければ分かるところまで戻る」この考え方を知っていれば、学校の勉強程度では躓くことは起こらないからだ。
そして、教科書が全くない人生や社会でも、その事が自分を支えてくれる一つの公式になるからだ。

人生や社会、そして仕事では、教科書のように戻るべきところがない。
そうすると、その戻るべきところを、自分が作らなければいけないということだ。
基本だ。
例えば、算数が分かるから数学に飛躍することが出来る、というように、生きるということ、仕事ということ、社会を歩くということ、そこに自分が基本を持つ必要があるのだ。

武道の稽古を見ていて、出来ない人は「言われた事をやろうとする」があるだけで、それがやたら難しいものであっても、単純なものであっても無差別的に「言われたこと」と並列になっているのが分かる。
つまり、「何をしているのか」自分は「何をしようとしているのか」という、自覚さえ無いのだ。
もちろん、これが単純な運動であれば、つまり、タイムを縮めるとか、距離を伸ばすというものであれば、自覚を持ちやすいが、現代において無用の長物でしかない武道を、自分として有用なものにしなければならない、という物事に取り組むのは難しすぎるのだ。
まずここを、自分で決めなければ何も始まらない。
ということを知らない人が多い。

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