体重移動一つをとっても
例えば「体重を移動させる」とした時、その意味は分かるし理屈も分かる。
しかし、実際的には分かっているようで、分かっていない。
実際的というのは、身体を動かすことで、という意味だ。
だから、分かりやすい身体運動としての形を提示する。
そうすると、それは形であり運動だから、非常に具体的で分かりやすい。
しかし、その分かりやすい事を、身体で実現するとした時、実は別物の難しさがあるのだ。
分かりやすい形を生み出す時、その前に10年以上の蓄積があり、直感的に生み出されてくる。
その10年という歳月を抜いて実現は無いからだ。
もちろん、10年というのは「たまたま」私自身がかかった時間であって、それは人によってそれぞれだ。
こういった「分かりやすい」というのを生み出すのは、ある意味で簡単だ。
本質を分かってさえいれば、容易に生み出せるからだ。
もちろん、本質を分かる、というのは、身体でも思考でもということだ。
でなければ、そこが歪になり、全体としてバランスが取れないからだ。
別物の難しさというのは、その提示された形や運動に含まれている様々な要素を、全てクリアしていかなければいけないという難しさだ。
提示された形や動きは出来ても余り意味が無い、というのは、そういうことだ。
もちろん、このあまり意味が無い、というのは、提示されたものを目的としたら、という意味である。
提示されたものを教材として、自己鍛錬することが稽古というのだ。
一つの事を完成させるというのは、自分自身を探求するようなものなので、興味は尽きない。