子供じゃあるまいし2
先日からネットで少し話題になっている、トランペッターの日野皓正さんの中学生往復ビンタ事件。
事件か?と私は思う。
事件にしたのはメディアであり、野次馬だろうということだ。
15年以上前、大阪の教室に30代の女性が見学に来た。
何時もの調子の教室風景だ。
帰宅後、その女性からメールが届いていた。
「日野は差別主義者や」と。
意味が分からなくて返信した。
納得したのは、その時、私と古い付き合いで、私より4歳ほど年長の女性とのやりとりを見ていての話だった。
私は「おばはん、ちゃんとやれ!」というような口調だ。
その年長の女性は、私の言葉に笑い転げながら「ちゃんとやってます!」とやり返す。
いわば吉本のやり取りのような展開だ。
それのどこが差別なのか分からなかった。
どうも私の言葉使いが、その女性には差別だと聞こえたのだ。
ここには、地域性や関係性がある。
だからその口調であり展開だ。
そこをすっ飛ばすと差別用語になるのかもしれない。
そんな事を書いて返信したが、今の野党と同じで聞く耳を持たない人だった。
そんなお子様の相手をする時間が勿体無いのでやりとりは止めた。
時間の経過の中にある関係性。
それがそこに固有の言語を作り出す。
というよりも、関係の中でこその行動であり言葉だ。
不特定多数に対する言葉と、そういった関係性の中にある言葉の区別も出来ないというのは、どんな社会体験をしているのかと思う。
それはマニュアル至上主義の教育を受けて育ち、その事に疑問を持たない、あるいは、持たなかった「良い子」だったのだろうと想像がつく。
ご両親の言うことを鵜呑みにし、学校教育を鵜呑みにし育ってきたのだろう。
どこに個性があり、どこに柔らかい頭脳が育ったというのか?
その意味で、子供なのだ。
そこが日野皓正さんの一件とリンクする。
メディアもコメンテーターも、総じて子供だ。