お子様は駄目
お子様とお子様ではない、の区分けはどこか。
話している人と、その人の言葉の背景や世界観を想像できること。
多分、この一語だろう。
言葉を理解する、という言葉が有るならば、ここを含んだこと。
あるいは、ここを重要視することだろう。
例えば、「ちゃんとやれ!」と私が指示を出し、相手は「はい」と言ったとする。
その時、「そのハイは何に対するハイなのか」と問う。
もちろん、問わない人もいる。
それは、その「ハイ」と話す人の表情やトーンから、どのレベルのハイなのかを想像出来るからだ。
問う場合は、言われたから返事をした、という只の返事の時だ。
同じ「ハイ」でも、全く異なる「ハイ」があるし、その反応にレベルがあるのだ。
よく、人間関係をうたうセミナーがあるが、その講師がこういったことに、教室で反応できない人が大半だ。
話す言葉の言葉面の理解できるが、人間として生きてきている背景や葛藤の中で成長しているこころの状態に対しての理解(響く)は出来ないのだ。
それはどうして?
その人自身が葛藤の末、「人間関係」というものを掘り下げたものではなく、「人間関係」という教則本を学んだだけだからだ。
つまり、「人間関係」を人間関係で学んだのではなく、人間関係を介さずに活字を知っただけだからだ。
それを畳の上の水練という。
本当は、人間関係に悩む人であれば、悩んでいるのだから色々な葛藤がある。
その葛藤をしている目で講師を見れば良いのだが、頭から「答えを知りたい」があるから盲目的になるのだ。
人間関係に一般化された答えなど無い。
その人が葛藤の末出すしかないのだ。