子供じゃあるまいし

先程、たまたまTVを付けると、従業員の70%が知的障害の人達という会社の紹介があった。
日本シェア1位を誇るチョークの会社日本理化学工業株式会社だ。
製造工程の殆どが、障害を持つ人が責任を持って作業をしている。
もちろん正社員で、社会保障もボーナスもある。
障害を持つ人が誇りを持って働いている姿は眩しい。

このブログでも、度々紹介しているが、私の中学生時代に中が良かった一人に、軽度の知的障害を持つ者がいた。
卒業後、初めての同窓会で会った時、かれは寿司屋で見習いをしていた。
私も水商売に携わっていたので、話が合うのは彼だけだった。
それから数年後、たまたま入ったミナミの寿司屋で、彼と再会した。
彼は店長をやっていた。
お互いに喜んだ。
それから数年、彼は辞めていなかった。
挫折したのかと一瞬頭を過ぎったが、自分の店を持って独立したのだ。

彼の姿を見ていて、仕事、働くというのは、こういうことだろう。
生きるとはこういうことだろう、と教えて貰った。
あちこち目移りをせずに、「これだけ」と決め、ひたすら働く。
そこに喜びを見出す。
ここが生きる基本だ。

今は、それこそ情報過多の時代だ。
その分、良いことも有るし悪いことも有る。
悪いことは、自分を見失ってしまうことだ。

私はある意味で毛嫌いしている翻訳語。
ここ10年、よく耳にする言葉に「受け入れる・承認欲求・自己肯定感」他がある。
その言葉を耳にすると「何、それ?」となる。
もちろん、それは心理を分析した結果、こうだとレッテル化されたものだ。
だから、それ自体がどうのこうのという話ではない。
しかし、それらは全てはある種の「結果」であって、それがクリアしなければならない目標でも目的でもない。
そこには何も無いからだ。

友人の軽度の知的障害を持つ彼は、ただお米を一生懸命研ぎ、握りを覚え、いかに美味しいお寿司を提供できるかだけを追求していた。
そこに、好かれたいとか嫌われるのは嫌だとか、誰にでも認めて欲しいというようなことに、うつつを抜かせる暇な時間など持ち合わせていなかった筈だ。

他人はなんとでも言うし、思うように思う。
決して、こちらの都合の良いようにはならない。

もちろん、そこに共通の利益が発生する場合は別だ。
その共通の利益という共通の価値があるから、認めあっているような気分になるだけだ。
そして、大事なことは認め合うって気持ちが悪いやろ、だ。
子供じゃあるまいし、自立した人間が口に出す言葉ではない。
それこそ恥を知れ、だ。
女性なら「はしたないことを言うな」だ。
そんなことより、自分のやっていることを磨け。
それが、自分と社会とを、あるいは、人とを結びつけるものだからだ。

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