アンバランスこそが生きている証
昨日は、数年ぶりに「棒の型」をやった。
手が沢山あるので、それぞれの分解や、全体としての身体操作を考えるのに適している。
もちろん、本質は「相手の力の方向性を感じ取る」ことだ。
その後、攻めだけ、受けだけに分かれての稽古にした。
久しぶりに受けをやってみたら、やはり私自身の「感覚の切れ」が良くなっていた。
それは結果として、数年前よりも身体の動きが良くなっている、ということに現れる。
しかし、自分が思っている以上に身体が動くから、思っている以上に息が切れた。
だからこの「思っている自分」というのは、明らかに過去の自分ということだと理解できる。
そしてそれは、自分自身に対する固定観念だということも出来る。
間違いなく「今」ではないということだ。
多分、人はこの繰り返しなのだろう。
先程までの自分と、今対応している自分に隙間がある場合も有るということだ。
と、動き回る稽古をすると、もっと動き回りたくなる。
そこが私の原点だからだ。
「私が私の理想に近づく」が目的だと蘇ってくるのだ。
その意味で、指導者という立場は、良いようで悪い。
というよりも、私には向いていないのだろうと何時も思う。
みんなの動きを見ていたらイライラするからだ。
だから性急に指示を出してしまう。
これは指導者としては駄目だ。
と思うが、そうそうバランスが良い私ではないし、バランスの良い人間などにはなりたくない。
バランスが取れたら、全ては止まってしまう、安定してしまうからだ。
アンバランス。
これこそが動きであり、生きているということだ。