誰かを理解する?何を?

「想像力」というのは、何種類もあるように思う。
その中で、私のいう「想像力」の一つは、自分自身の体験に基づき、誰かの体験を、あるいは、過程を思い描けることを言う。
「他人を理解する」という言葉がある。
一体他人の何を理解するのか?他人の何を理解したいのか?それは自分にとってどんな意味があるのか?そういう具合に「他人を理解する」を考えて見たことがあるだろうか?
私は、誰かを理解したいのは、その誰かが何かを獲得した過程だ。
それを想像することにより、その誰かがどれ程の工夫と努力を体感してきたかを想像する。
しかし、それは当人にとっては、「努力ではない、努力をしていない」という言葉が付いて回る。
そこに、何かを獲得するということの本質が潜んでいると考えるからだ。
同時にその誰かの価値そのものが存在するからだ。
優劣や高低という比較されるものではなく、その誰か固有の価値だ。
そこを私は敬う。
それは同時に、「まだまだあかんわ」と、自分を発奮させる材料とするのだ。
その意味で、私の師は周りの人だと言うのだ。
そういった想像力を持てない人は、誰かを理解できるのだろうか。
誰かの性格や趣味嗜好を分かったところで、それは見ていたら分かることであり、理解という言葉の中には無いと私はしている。
私は誰かを理解する、とした時、常にその視点になる。
こちらから見れば「相当の努力」が必要なことを、「いや、努力はしていません」と語る人が好きだ。
そして、信頼に足りる人だと思えるのだ。
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