自分を超える人に
日曜日は、大阪「明鏡塾14期」の講座始めだった。
新顔の鍼灸師の飲み込みが早く、どんどん消化していく。
こういう人も居るのだろう。
いや、目の前に居る。
問題というか、テーマを出してどう取り組むかを見ていたら、周りの人を参考にしたり、私からのアドバイスを「そのまま」やっている感じだ。
もちろん、そのままは出来ないが、そのままをイメージとして掴み、それを取り込んでいく感じだ。
この鍼灸師は大阪の武道へも参加している。
年をとってからの目標にするものが見つかったと喜んでくれている。
また、「東京明鏡塾」に今期から受講している鍼灸師の一人は「果たして自分は何を見て聞いて感じて判断していたのだろう、患者さんをちゃんと診ていなかったのかと立ち止まるきっかけとなりました。見ていたつもり、感じていたつもり、聞いていたつもりになって今まで過ごしてきた自分にとって、目から鱗でした。明鏡塾で気づくことが出来、これから変わっていくのが楽しみです。自分の身体、考え方に気づくきっかけになりました。」というような感想を送ってくれた。
積極的に取り組んでいる人を見るのは楽しい。
「あれやこれや」と考え、「あれやこれや」と実験をする。
と書けば普通の事になってしまう。
普通というのは、大方の人の取り組みだ。
普通というのは、出来ないところを出来るように考える事だ。
普通ではない、というのは、出来ないところを「私のやり方を繰り返す事」で、突破していくのだ。
だから、「出来た」としても、先程の「普通の人の出来たとは違い」、私の取り組み方・考え方の一部を獲得したという事になるのだ。
普通の出来た、は「自分で考えた、その場だけで出来る為の出来た」だ。
だから、そこに全体との共通性はないし、身に付いていかないのだ。
こう言うことは、口が酸っぱくなる程繰り返している。
大方の人は、それを「理解」している。
出来ていく人は、「理解ではなく」「行為」として体得していくのだ。
この差、この違いは、年月と共に追い付けない開きになる。
4期から受講している理学療法士は、この王道を進んでいるので、それこそ9年前の同期の理学療法士や色んな療法士とは、雲泥の差があり、きっと話は合わないだろうし、日本語が通じなくなっている事と思う。



