「自由」を考えられるのは
「運足」という事で「足」を考えた事が無い。
思い起こせば、45年以上前に一番練習したのは「膝と膝の連関」での体重移動だ。
もちろん、当時はその言葉は持っておらず、重要だと直感したからやり続けていた。
その頃に、養神館故塩田宗家の「歩く姿が武である」を知った。
つまり、普段の歩くという行動が、そのまま「力化」されなければならない、とその時点では解釈した。
色々と間はあるが、それを省くと、体重移動される歩法として、歩くを考えていったのだ。
私の場合は「運足」は、その延長にある。
棒を使い刀を使うと、その道具に相応しい、つまり、道具から力が出る体捌きを、道具から要求される。
同時に体重移動が要素として含まれていなければいけない。
そういった、条件を加えて行く。
そうすると、不自由極まりない動きになる。
不自由だと思ってしまうのは、それ以前は自由だったと思っているからだ。
「ほんとに自由か?」と問うてみると、「?」だ。
自分がやりたいようにやっているだけで、自由というものではないし、力を出せる動きではない。
そこに不自由な条件を持ち込むから、その身体の感覚は育ち動きは精密になっていくのだ。
そして、そこで始めて「自由とは?」を考える基本が出来たということになる。
大阪ワークショップは8月4,5,6日です。