人の行為は同時進行的で立体的なものだが、言葉は平面的だから

どんな作業でも立体的、つまり、同時進行的に多様な感覚が働いていたり、行為として別々のものを働かせている。

例えば、自動車の運転であっても立体的だ。
運転できる人は運転に「慣れて」しまっているので、複雑な事をしているという認識はないだけだ。
それを平面的な考え方しか持たないのであれば、同時進行的な自分自身の行動を理解する事は出来ない。

言葉の使い方が平面的であれば、その言葉の影響で平面的な思考を持つ自分になるしかないのだ。
折角、何らかの作業や仕事をしているにも拘わらずだ。

そうなると、どんどん仕事が出来なくなると同時に、自分自身の能力も退化していくのだ。

「見たら分かる」という言い方を私はするが、「見る」事でその全体を立体的に捉えているのだが、それを言葉化する事で平面的になるのだ。
ワークショップや教室での皆を見ていると、言葉数の多い人ほど前に進まない事で、それが分かる。

何らかの手本を見せても、説明はしない。
それは「見る=立体的に捉える」という能力を引き出さなければいけないからだ。

武道の技など説明できない。
全体が動いているからだ。

もちろん、全体というのは「私そのもの」という事だ。
だから、自分を知らなければ、という「自分」というのは、その目的に対して実現する為の自分をどれだけ認識しているかだ。

そこが明確だと、実現不可能な目的は設定しないのだ。

もちろん、私のように夢のような目的を持ち、死ぬまでに実現できないだろうがやってみる、というのであればOKだが、大方の人はもっと現実的な目的を持つだろうから実現されていくのだ。

「武禅」4月28,29,30日です。残り5席になりました。お早めにお申込みください。

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