気持ちが手段を下支えするが、根本的には「気持ち=私」だと考える方が面倒ではない
よくよく考えると「気持ち」と私を切り離す事は出来ないのだから、「気持ち=私」でもあるという事だ。
神田道場に、ここ数回オランダからアーチストが来ている。
むろん、アーチストといっても空手や拳法をやっている。
前回は、少し体重移動の基礎の片手両手持ちを教えた。
昨日は三角形という考え方を伝えた。
何時も最後の2.30分は体重移動の応用を4.5人掛りで行う。
単純な応用を教えるが、初心者レベルの「出来る」であっても誰もがすぐに出来る訳ではない。
むしろ出来ない人の方が多い。
というか、何時までたっても出来ない人も数多くいる。
片手胸掴みは「胸骨操作」が必要なので、体重移動の中では一番難しいかもしれない。
案の定できないので、両手胸倉掴みに切り替えてみた。
この場合も胸骨操作が出来れば簡単に相手に体重を動かせるが、それが出来なければ少々難しくなる。
相手の掴む力に圧倒され身体各部が緩むからだ。
それと「どの方向に体重を動かすのか」が分かり難い事もある。
そういった要素があるから、何年経っても出来ない人もいるのだ。
で面倒なので、「相手の目をしっかり見て、その方向に動いてみよう」というと、多少は手こずったが出来た。
要領を見つけると何度か自力で成功させた。
ジュエリーデザイナーの智子ちゃんにも視線の事を伝えると、片手胸掴みで男性を転がしてしまって大はしゃぎ。
結局、初めての2人には身体としての要素は難しいが、それは「気持ちが補う」という事が実証された形になった。
逆に言えば、身体操作として体重移動が出来たとしても、そこに「気持ち」が下支えしていなければ出来ないのだ。
もちろん、自分と同じかそれより小さな身体の人には通用するが、少しでも気持ちの強い人には通用しないという事でもある。
そうなると改めて「気持ちとは?」となる。
私流には「負けん気」なのだが、これも少し掘り下げる必要がある。
新しいテーマを見つけた。
しかし、よくよく考えると「気持ち」と私を切り離す事は出来ないのだから、「気持ち=私」でもあるという事だ。
東京ワークショップ12月2.3.4日