「セリ鍋」は無茶苦茶美味しかった、その後の雑炊も胃袋が満たされていなければいくらでも入った!

土曜日は朝8時30分から仙台へ。
1日中セミナー。
懇親会は「セリ鍋」これが絶品。
後のおじやが、これまた美味しい。
「先生、来年から後期高齢者ですね。」「そうか、そうやなぁ」「来年のこの時期も空けておいて下さいよ」「生きていたらな」

翌朝7時30分から朝食会。
10時迄やって、新幹線で東京。
道場で稽古をして終了。

稽古にオランダから仕事に日本に来たアーチストが受講。
片言の日本語が行ける。

でも、私の片言の英語の方が通じた。
もちろん、それには理由がある。
そのアーチストが「知りたい」と熱望しているからだ。
そして、私が伝えたいと思っているからだ。

そこが言葉が通じるか否かの境目だ。

そして、そして不思議なのは、日本人には余り言葉が通じない事だ。

ということを考えてみると、日本人はそれほど知りたいとかモノにしたいと思っていない、という事なのだろうと思う。

私が発する僅かな単語を、想像力を総動員して理解しようとする。
それ自身がその人の何かを発動させているのだろう。

私が海外にいても同じだ。
通訳をしてくれる人はいるが、直接私に話しかける人もいる。
そんな時、何とかその人の質問を理解しようとする。
その質問する人も、私が話せない事を知っているので、優しい単語を並べてくれる。

でもいくら優しくてもその単語を知らなければ分からない。
が、単語そのものではなく稽古の流れや、その人の表情や身振り手振りが、理解の手助けになり、質問を理解し応える。

それがコミュニケーションだ。

日本人の場合は、とにかく説明を求める人が多く、しかし、いくら説明しても「知りたい」という情熱が低ければ、その人自身の脳がフル回転しない。
上っ面のところで「分からない」となり、直ぐに諦めるのだ。

こちらとして「どうして?」なのだが多分集中するのが持たないのだろう。
それは「欲求」そのものの熱量が基本的に低いからだ。
半分死んでるのかも?

東京ワークショッ12月2.3.4日残り10席

https://www.hino-workshop.com/workshop-1

形が美しかったのでパチリ。
北陸方面への「輝き」だそうだ。

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