自分で見つける自分の問題、当たり前か
昨日の稽古は、少人数だったので復習をした。
体重移動を色々と考えていたら、ふと思い付いた体重移動。
これはきっとある種の完成の側面だろうと思った。
もちろん、手順も同じだ。
「同時に」が全てだ。
それと「力みを取る」だ。
力みを取る為の稽古だから、それを続けて自分の力みに気付くしかない。
もちろん、これを目指したのではない。
「そうなった」だけだ。
その都度その都度の超えたい問題があり、それを超えて行ったらここに来た、そんな感じだ。
問題は、その都度、的確な問題を持っているのか?だろうと思う。
誰かに問題を与えて貰うのではなく、自分の問題を見つけろ、なのだ。
「武禅」のレポートに「自分の事ばかりに意識がいって」という言葉あったが、それは自分の事を考えているのではなく、自分の持つ思い込みや借りてきた言葉を、自分に当てはめてまた幻想を膨らませているだけだ。
もしもその「自分の事」が、本当に自分の事なら、自分が現実にぶつかっている問題に焦点をあて、どうすれば解決するか、あるいは、その問題の根源は何かを考える筈だ。
しかし、「自分の事」と言葉を使う人の大半は、自分の思い込みの中にある自分を、実際の自分だと思っている。
大方は「やったらしまい(行動したら解決する)」なのだが、その行動を起さない為の、また後回しする為の言葉がそれだ。
私の10代や20代の時には使って無かった言葉が沢山あるが、大方がそれだ。
それが人を弱くし、行動力を削いでいっているのだ。