本気?誰でもどこでも本気だろう?そうとは知らないのは自分だけだ

「本気」てどんな状態だろう。

人それぞれに「本気」の質というかレベルというか、それぞれに違う。
その意味で「本気とはこうだ」と言い切れない。

そんな中で言えるとしたら?と考えてみる。言い訳の無い状態、説明の無い状態、意識が散漫ではない状態、自分を客観視していない状態、対峙してそのものになっている状態、そんなものかな?
で、日本語としては「一心不乱に」と一言になる。

そして、もっと面白いのは、「本気」は「他人には見えている」事だ。
厳密に言えば「反応」し「視覚化」されたという事だ。
多分それが生物の感性の鋭いところだ。

もし「本気」の人を見えないとすると、それは「見ていない」からで、自分でその事を解釈、あるいは評価しているからだ。
つまり、「反応」を思考が遮っている状態だ。

その目は、後天的なもので、ものの考え方や見方を言葉で教育したからだ。
質が悪いのは、その自分の頭の中を絶対視していること、自分を正しいと位置づけているところだ。
だから、自分の頭に振り回され、世間に溢れる言葉に振り回されるのだ。

大切なのは反応する実体であって、頭の中に渦巻く言葉や思考ではない。

しかし、本当は「本気で」という言葉は必要のない言葉だ。
常に本気だからだ。
一切の言い訳が効かない状態が生きている、そのものだからだ。

つまり、生物として「生きている」という事だ。
それは、間違いなく「死」という事と繋がっている事だ。

ただ、私達は、その生物としての生と死を無視し、様々な価値観や頭の中にある言葉を全うする事を人生と呼んでいるので、話がややこしくなるし生物としても弱いのだ。

もちろん、生物としての生と死は、人生と密接に繋がっている。
交通事故に合い生死の境をさまよったとしたら、「ちゃんと生きよう」あるいは「生きていて良かった」と思う人が大半だろう。
それは生物としての生死を自覚したからだ。

むろん、自覚するしないという事と関係なく生死はあるのだが、、、
何れにしても「本気」という言葉は、実は必要のない言葉なのだ。

24時間、何をしていても生物であり自分であって、それ以外の何物でもないからだ。

山に沈む太陽

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