打たれ弱いのは不幸でしかない
「これで良いですか」と聞かれる。
「あかんよ」と答える。
意識を含んだ身体技術に関しては、良否の判定が難しい。
難しいというのは、技術そのものの事もあるし、身に付き具合の事もある。
意識の変化もあるからだ。
また、その時だけ出来ていることを「良し」とは言わないというのもある。
だから、体重移動で、相手が倒れたら「良し」なのではない。
体重移動の技術が身に付いたら「良し」だ。
同時に「これで良いですか」という質問が無くなれば、ある意味で「良し」でもある。
もちろん、身に付いていたら質問も無くなる。
それは「出来たから」なのではない。
「どう考えれば良いのか」が体得されて来たからだ。
また、質問が無くなるのは、自分の何が駄目なのかに気付き始めた証拠だから「良し」なのだ。
つまり、質問が無くなる原因として、一つに体感覚が良くなったから。
一つに、何を目指さなければいけないのかが、その人なりに見えてきたからだ。
だから、そういった事を質問する内は、全て駄目だということだ。
駄目だし慣れ、否定され慣れしていない人は、きっと単純に「ダメ出しをされたから駄目なのだ」となるのだろう。
しかも、そのダメ出しは、「全否定」だと思い込んでしまう事もあるのだろう。
誰も「あなた」の事を否定しているのではない。
あなたの上に乗っかっている「技術が未熟なだけ」なのだ。
こういった当たり前の事も、当たり前ではないように育つのは、不幸極まりない。
どんな親や、どんな教育の中で育ったのか、また、どんな社会環境にいるのか、ほんと心配になってくる。