人は幾つになっても上達する
武道の一つの型は、思想であり哲学でもある。
例えば、一刀流とした時、それを開いた開祖の体験であり、その体験を後に紐解いて体系化、あるいは形式化したもの、それが「一刀流の型」である。
もちろん、この事は武道を探求する中で、30年ほど前に気付いていったものだ。
しかし、先日中国拳法の形意拳の動画を何気なく見ていた時、改めてそのことに気付き、同時に私のやっている事にも気付いた。
もちろん、これも30年ほど前に気付いたものだ。
形意拳の動きは、私のやっている動きと似ている。
もちろん、似ているだけで中身は全く違う。
その違いは何だろう?と見ていたのだ。
動きの不自然さが目に付き、その不自然さから、「形意拳」という考え方とそのレベルが見えたのだ。
私のやっている事は、先ほどの流派やその流派の思想や哲学を超え、純粋に「人間身体」としての運動、そして、その運動を司る個人の考え方や価値観、そして癖を取っ払った、純粋な「人間身体」としての動きを探求しているのだと、改めて気付いたのだ。
つまり、武道を人間身体の普遍的な動きとして探求しているという事だ。
これは、私にとって今更の事なのだが、その事が改めてより現実になったという話だ。
しかし、この「より現実になった」という気付きは、相当大事な事だ。
というのは、武道の探求で色々気付き、そして、実際にその事をやっているのだが、そういった蓄積が一つに整理され、その整理されたものが頭を飛び出し、現実とくっついた状態になったということだ。
ということは、30年前に気付き、その気付いた事を「問題視」し、それを解決するのに30年かかったということだ。
それは、30年かかったという時間的な事なのだが、その過程を踏まなければ「より現実になった」という体感が得られなかったのだ。
ここで大事なのは30年という時間ではなく、山のように問題視(気付いた)した事柄があったということで、それを整理したのではなく、整理されるのに、という事だ。
という具合に、人は幾つ何十歳になっても成長する、あるいは上達するという事でもあるのだ。
2021年初頭の気付きは、私としては相当面白い。