感性が先か技術が先か

ピアノを弾きたい、とした時、ピアノを弾く技術が先か、音楽的感性が先かを考える。
もちろん、どちらでも良い。

但し、技術は魔物だ。
つまり、技術にとり憑かれると、肝心の音楽的感性が忘れ去られてしまう危険性があるということだ。
以前、世界的指揮者の小澤征爾さんが、「技術優先の風潮を、よい加減止めなければいけない。確かに技術は必要だが技術だけでは音楽にならない。鼻歌に戻れ」という様な事をおっしゃっていた。

クラシックバレエのワークショップをオランダで開いた時、バレエの先生方が同じように「技術が先行してバレエのこころが失われている」とおっしゃっていた。
そのワークショップを受講している学生達を見ていると、明らかにその違いがあった。
同じ姿勢をとっても感性がその姿勢を要求したのか、その人が姿勢として完璧な姿勢を作り出そうとしているのか、違いは歴然としていた。
当然、感性優先の人は「美しい」が、姿勢を作っているだけの人は「それで何をしたいの?」と質問が湧く。

そこから考えると、やはり感性からの入り口しか無い。
しかし、よくよく考えると、そういった内的発動があり、「これをしたい」「これを弾きたい」となるからだ。
その内的な感性を深めていくことが、結果としてどんな技術が必要なのかに現れてくる、それが必然だし、この図式は人生全てに当てはまる。

先日、フジコ・ヘミングさんのソロピアノを聴いた。
TVにも関わらず、ピアニシモの鍵盤から音が沸き上がって来ていた。
それこそ鳥肌ものだった。

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