実体が無ければ言葉が代用される

武道の「技」は色々あるし、考え方もそれぞれにある。
私は、結局のところ「体」を「人間」そのものという捉え方をし「身体」と書くようにした。

それは「技」には目的があり、その目的は自分自身の何らかの欲求が生み出しているものだ。
という内面がなければ、その「技」という身体現象を起こさないからだ。

それは当たり前だろう、となるが、たとえ当たり前だったとしても、そこは棚の上に乗せて、「運動としての技」にしか視点が向いていないのが現状だ。
当然「心技体」なる言葉があるのだから、その実体は無いということだ。

実体が無ければ、言葉が代用する。
そして、その言葉は独り歩きをし、完全に薄められたものになるか、神棚の上に祀られるようなものになる。
それが世の常だ。

「心技体」は、例外なく全ての人の状態だ。
そこにレベルがあるだけだ。
つまり、その人なりの心技体だ。

もちろん、神棚に祀り上げている心技体は、基本的には自意識との関りを極限まで無くしたものだ。
そこに辿り着かなければいけないので、当然、最初から内面と運動の関係に手を付けていなければいけない。
でないと、武道の「技」ではなく、道着を着た単なる運動だ。

Follow me!