こうしなければ、は持っていない

「どこまで行きたいのか」人を観察していて思う事だ。
もちろん、武道や明鏡塾での話だ。

それの実際は、目先の目標を持っているのかどうかだ。
これはものにしてやろう、が有るか無いかだ。

大きな意味で、武道をマスターしたい、となれば、私ならどうするだろう。
というのは、そういう言葉を聞く事があるからだ。
私はそんな事を考えた事があるのか?と記憶を辿る。

いや、それは無いな、となる。

それよりも、例えば「切り結ぶ太刀の下こそ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」というような言葉から、その術理を解明していく、という実際にしか興味が湧かない。
当然、その事を「私が」実現したいと思う。

それだけのことで、目的も目標も持っていない。
自分が何をどうして行くのか、行けば良いのかは、興味の向く側に自動的に進んでいる、としか言いようがないのだ。

「こうしなければいけない」という言葉も持っていない。
それは「こうしなければいけない」という実際を具体的に行為として行い、その中で修正しているからだ。

言葉を持つと、行為ががんじがらめになるし、行為そのものが限定されてしまうからだ。
言葉が行為を切り取ってしまうからだ。

Follow me!